逆襲



「ありがとう。もう大丈夫よ」
 咳がおさまったマリは立ち上がり夕食の支度を再開した。

 食事をしながらマリは事情を話し出した。電話の男はウスキという山岳部の3年生である。2浪しているから、俺やマリより3つ年上ということになる。マリは入部早々口説かれたが、きっぱりと断った。しかし、ウスキはその後も正門の前や駅で待ち伏せ、執拗につきまとってくる。マリがメインザックを新調するために神田の山道具屋まで行こうとすると「ぼくが見立ててやるよ」と言いながら図々しくもついてきたという。

 ん?神田?

 ヨシバが神田の駅前でマリが男と歩いていたのを見たというのは、この時のことに違いない。

 2年になり、新入部員の中にマシダメグミという女子がいたので、いつもメグミと帰るようになった。流石にウスキも待ち伏せ攻撃をかけられなくなり、最近は安心して帰途につけるようになった。ところが、部員名簿あたりからマリの電話番号を知り、頻繁に電話をかけてくるようになったという。完全にストーカー行為である(当時はこの言葉がまだ存在してなかった)

 ウスキは体力がなく、山ではいつもバテるので、山行にはなんだかんだと理由をつけて欠席する名ばかりの山岳部員でもあるそうだ。
「狡猾でしつこい男なのよ。本当は気が小さいくせにかっこばっかりつける薄っぺらなやつ。大嫌い」
 マリは辟易するように呟いた。
『俺が話をつけてやろうか』
「いいのよ、あんなやつぐらい。わたしが自分で決着をつけてみせるわ」
 一瞬、マリはきつい目をした。
「でも、わたしカヨワイの。いざとなったらキタノくん、守ってね」
『あっ、ああ、もちろん』
「嬉しいわ〜」
 マリがいきなり抱きついてきたので、俺は後ろにひっくりかえってしまう。その夜、マリは俺の左胸にしがみついたまま眠ってしまった。

 2日後、俺がバイトから帰ると部屋の灯りが点いている。
「おかえり」
 マリの声だ。
『なんだ、来てたのか』
「やっぱり、ひとりでいると怖いの。ご飯は」
『来てると思わなかったから、済ませてきたよ』

 驚いたことにマリは、俺が布団に入ってからも座り机の電気スタンドを点けて勉強を続けていた。俺はすっかり熟睡してしまったので、マリが何時まで起きていたのかは知るよしもない。明け方にふと目を覚ますと俺の横で静かに寝息を立てていた。流石は医学生である。

 そんな日々を送っているうちに歳も暮れてきた。そろそろマリの冬山シーズンが始まろうとしていた時期の夜、彼女から電話があった。
「今ね、渋谷で山岳部の飲み会をしているところなの。それで盛りあがっちゃって、恋人のいる人は相手をお店につれてくることになっちゃったのよ。あなた、ちょっと来てもらえない」
『やだよ、恥ずかしいし。そういうの、俺がとっても苦手にしていること、おまえなら充分過ぎるくらい理解していただろう』
「そう言われると思ったわ。実はね、ウスキが来てるの。ここで思いきり見せつけてやればウスキも諦めると思っていたところなのよ」
『ほう、これはマリも策士だな。わかった。そういうわけなら行ってみよう』
 マリからおおよその場所を訊いて東横線に乗り込んだ。

 あたりが薄暗くなる頃、俺は渋谷駅から少し裏路地へ外れ、そそくさと歩いていた。ひどく寒さが身に凍みる夜だ。でも10分も過ぎるとオフィス街の一角にぽつんと建っていた”アイガー”という古い洋風造りの居酒屋に辿り着く。どうやら、そのネーミングからして山岳部いきつけの店らしい。中へ入るとたくさんの男女の交歓の声が、かまびすしく響いている。

「キタノくん、来てくれてありがとう」
 マリがすぐに入口まで迎えに来てくれた。

 他の部員からは拍手で歓待される。

 いろいろな部員と話した。皆、山の男らしく気さくな連中だが、俺とマリとの馴れ初めばかりを執拗に訊きたがることにやや辟易する。とりあえず彼女とは高校時代、同級だったと答え、あとは軽く流した。
「ごめんね、みんな悪気はないんだけど酔っているから。あなたを無理に呼び出しちゃって、やっぱり間違いでした」
『いいんだ。気にするな』
 マリは申しわけなさそうな表情で、”馴れ初め”の話題を逸らそうとしたり、俺のコップへ酒を注いだりしてくれた。そして、まるで俺を守るように横へぴったりと寄り添っていた。

 そんなことより、渦中のウスキとはどの男なんだろう。
「キタノくん、ちょっとぼくのテーブルで一緒に飲みませんか」
 マリを見ると頷いたので、その男の座るテーブルへ移動した。よく日焼けをした典型的な山屋のスタイルの男なので、ウスキではないだろうと直感で思った。

「主将をさせてもらっているマジマと言います」
 丁寧な物腰だ。
『キタノです。マリがいつもお世話になっています』
「キタノくん、マリちゃんは大変な美人だし、気立てもいいので山岳部のアイドルなんです。そのアイドルのいい人がきみだとは本当に羨ましい。きみたちの不動の信頼関係のようなものに正直ぼくは、いや、この場の誰もが嫉妬し、そして感動したと思うね。まさに理想的なカップル像だな」
 マジマは相好を崩し、俺のコップにビールを注いだ。

 間違いなくこの男もマリに魅了された時期があった・・・

 いや今もマリへ好意以上のものを持っているかも知れないと俺はマジマの微妙な表情の変化から敏感に読み取っていた。でも実直なマジマの人柄をけして不快とは思わなかった。

 彼は山岳部という狭い空間の中の身内のひとりと捉えていたマリが、別の世界のごく平凡な学生と恋仲になっていた事実へ一種の驚きを感じていたようである。
「マリちゃんの実力は一流だよ。経験や勘は上級生の我々を凌駕するものがある。ぼくもたじたじな場面が何度もあった。あと数年もすれば日本を代表するような女性アルピニストになれるんじゃなかろうか」
 確かにマリは幼い頃から両親に連れられて登山を続けてきたのだが、そんなに凄い実力者だったとは意外である。

 マジマのテーブルを辞し、俺はマリの席の隣に戻った。
「どうだった、マジマさん」
『マリのことを褒めてたよ。一流の実力者だとね』
「まあ、そんなこと。あなたの前だから、お世辞を言ったのでしょう。あの、ちょっとお手洗いにいってくるね」
 マリが席を立つと、待っていたかのように背後から突然声がした。
「キタノくんだね。話があるんだ。外までつき合ってくれるかい」
 僻みっぽい話し方だった。線が細いし山焼けもしていない。口元にしまりがない実に嫌らしそうな顔立ちをしている男だ。こいつが、ウスキだな。どうやら決着をつけるときがきたようだ。

 外に出ると木枯らしが猛烈に吹き荒れていた。まるで荒野のガンマンの決闘シーンのようである。
「ぼくはウスキという者だ。きみは将来、なんになるつもりなんだ」
 いきなり質問される。
『特にまだ決めてません』
「ふふ、やはりそうか」
 ウスキはにやりと卑屈な笑顔を浮かべた。
「単刀直入に言おう。きみはマリくんから身を引きたまえ。正直言って不釣合いだし、キタノくんの存在は、これからの彼女にとって負の要素ばかりだね」
『マリがそう望むなら俺は潔く身を引く覚悟はある。けど、あんたにどうこう言われる筋合いなどない』
 もう俺の腹は爆発寸前、臨界点に達している。
「わからない男だなきみも。あの店にいたのは全員医学部の学生だ。きみのようなポリシーのない文系の学生とは住む世界が違い過ぎるんだよ。身の程を知るべきだね。まあ、我々はつまり将来、医師になるエリート集団なんだ」
『そのエリートのあんたが、嫌がる他人の恋人を追いかけまわして失態を演じるとは、たいしたエリートだな。それともエリートってやつは、女性が嫌がっていてもしつこくつけ回す不粋なものなのかい?』
「なんだと」
 ウスキは殴りかかってきたが、軽くかわすと勝手に街路樹へ顔面をぶつけて鼻血を噴き出していた。
『相手になるぞ、エリートとやら?』
 強烈な睨みを効かせると、エリート・・・いやさ、ウスキは目をそむけた。
「これだから野蛮人は嫌なんだ」
 どっちが野蛮人なのやら。

 その刹那・・・

「なにやってるの」
 マリが叫びながら店を飛びだしてきた。
「キタノくんの姿がないから、多分、こんなことだろうと思ったわ」
 ウスキの顔を睨めつけている。
「ウスキさん、今、キタノになんとおっしゃいました」
 マリは本当に怒り心頭に達している様子である。
「マリくんとは不釣合いだから、身を引けと言ったまでだ。きみもいい加減目を醒まして社会の現実を考えたらどうだ。ぼくは、今夜のきみは見るに耐えなかった。身が震えるほどがっかりしたね。マリさんには、ふさわしいレベルの人間を選んでもらいたいと痛切に感じたよ。どうして、ぼくの気持ちを理解してくれないんだ」
 ウスキはふてぶてしい顔で叫んでいた。

「ふざけんじゃないわよ」

 バシッ、バシッ・・・

 マリはウスキの頬へ思いっきり往復で平手打ちをくらわせた。ウスキはまた鼻血を噴き出す。
「最低ね。なにが不釣合いよ。あんたに関係ないじゃん。いい気になってんじゃないわよ。キタノとわたしの絆の深さも知らないくせに」
 ウスキは目が点になっていた。
「マリさんが・・・マリさんが、ぼくを叩いた。ぼくの知っているマリくんじゃない」
 ウスキは気の毒になるほど狼狽している。
「わたしはねえ、キタノを侮辱するやつは誰だろうと絶対に赦さない。たとえ相手がヒグマでもキタノのためだったら送り襟絞めで絞め殺してみせるし、キタノのためなら百万回でも死ねるわ」
 こんなに激怒しているマリの姿を見たのは最初で最後であった。

「なんなら、もう1発、ひっぱたいてやる?」
「ひ、ひ、ひえ〜、違う、マリくんはこんなはずじゃないよ」
 あまりの恐怖に怯え、ウスキはほとんどパニックになっていた。
「やかましい。このコンコンチキのマザコン野郎。おとといきやがれ」
 マジギレしている。
『ま、マリ、もうよせ。充分だ』
 ウスキは駅の方向へ這いつくばるような格好で逃げ出した。

 なんて気丈な女なのだろう。俺も一瞬、マリはこんな人じゃないと思ったのは内緒だ。

「さあ、今夜はもう遅いし帰りましょう」
『あ、ああ。けど飲み代を精算しないと』
「会費は、あなたの分まで前払いしてあるから平気よ。けど、なんだか、この部活では長くやっていけそうもない気がしてきたわ」
『おっ、おい、まさか辞めてしまうのか?』
「だって、あなたにまで迷惑が及ぶのですもの。責任を痛感しています。勉強も大切かも知れないけど、明らかに人生体験や周囲への配慮が不足している人が多いわ。純粋で真摯な恋愛経験がないから、ウスキのように他人の恋路にまで強引に干渉してくる異常なやつまで現われるのよ」
 俺は、思わぬ展開にかなり驚いてしまう。

『しかし、そんな人たちがドクターになったら、うかうか病気にもなれないぞ』
「だから頑張らなきゃ。本当に未来が心配になるわね」
 マリは小さく溜息をついた。マリはこの時、殺伐とした日本の将来の姿を予見していたのかも知れない。
「それよりさあ、北海道は増毛の銘酒”国稀”が手に入ったの。東京では幻のお酒よ、凄いでしょ。うちで徹底的に勝利の美酒に酔いしれるぞ!あ、いえ、お召し上がりくださいね。硬派キタノさん、ウフ」
 マリはそんな重い雰囲気を打ち消すかの如く悪戯っぽく囁いた。
『あっ、はい』

 カヨワイ?守って?

 当時からあんまり明晰でない俺の頭脳では、とてもじゃないが変換できない状況へと陥る。 



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