10
マリの父
年末からマリは黒部方面へ山行に向かった。なんでも今回はバリエーションルートを求めるらしくかなり厳しい登山になるそうだ。メンバーも精鋭揃いのパーティである。でもマジマが言っていたマリの一流の経験と勘という言葉が俺の脳裏に残存しており、さほど不安な気持ちにはならなかった。 俺は暮れから正月3日まで実家に帰省した。2日には高校時代のクラス会にも出席し、級友との再会を楽しんだ。 「キタノくん、まだミゾグチさんとは続いてるの?」 『まあ、それなりにな』 「ずいぶん長いわねえ。もしかしたら、このまま結婚まで考えているとか?」 『けっ、結婚ですと?俺はまだ甲斐性なしの20歳の学生だぞ』 俺は、同級生であり、かつての柔道部のマネージャーだったサクライキョウコという女性からの何気ない一言に思わずビールを噴き出しそうになる。 彼女は、進学せずに地元の企業へ就職し、既に若奥様となっていた。 「高校の時、一度だけあなたに告白したわよね」 サクライはふざけ半分ながら、少し恨めしげな顔をした。 『そうか?俺は全部忘れた』 「あなたに手編みのベストを贈ったことも」 どうも酒癖がよろしくない。 『そんなこともあったか』 「とぼけないで。あの時は、乙女心がかなり傷ついたのよ。硬派だから仕方ないと諦めたけど、いつの間にか、素敵な彼女とくっついているじゃないの。女はね、そういう悲しいシーンを生涯忘れないものなの」 『それは済まないことをした』 「もういいけど。わたしじゃ、どうせ、ミゾグチさんには勝てっこないもんね」 サクライは、自嘲気味に微笑みながら、レモンハイを一気に飲み干した。昔から思っていたことなのだが、やっぱり彼女は女傑だと痛感する。 「やあ、キタノちゃん、元気だった?」 中央大学の経済学部へ進学したイチハラからも声をかけられた。 でっぷりと太ったイチハラは、パン屋の倅、いや地元では大手のパンの製造工場の跡取り息子だった。根が優しいやつなのだが、田舎企業の御曹司なもんで、半ちくな帝王学めいた教育を受け、周囲へかなり誤解を撒き散らしていた。難点は自分の自慢話し、正しくは家業の業界の話題ばかりで聞き手が辟易するくらい退屈になることだ。 「オレは、大学の4年間は一切パンに触れずに学生生活のみを謳歌しろと会長の祖父に厳命されたんだ。どうせ生涯、この業界で生きていくことになるからな」 相変わらず大仰なやつだった。 『じゃあ、学問にでも専念しているのかい?』 「いや、それよりもゴルフに凝ってしまってね。結構、通っているよ。将来、絶対に必要になる嗜みだろう。今度、きみも一緒にどうだ」 ゴルフですと・・・ まだバブルの時代にも到達していない頃、学生の分際で、さりげなく凄い身分だと感心する。実は高校時代にキャディのバイトをした経験があるが、ワンラウンド何万円の世界だった。ゴルフなんて、まさに貴族のスポーツだと庶民派の俺は確信していた。 甲斐性なしの俺は、横浜のアパートに戻った翌日からバイトに入り、みっちりと働く。俺の将来って、どんな職業に就くのだろう。なんの明確なビジョンもないままの苦学生である。そんな不安にかられる情けない俺にとって体の芯から冷え込む晩だった。1983年の冬は、雪の当たり年で東京方面でもしょっちゅう寒波に見舞われた。 夜遅くにげっそりとやつれた表情のマリが俺の部屋にやってきた。 「今回は流石にしんどかったわ。山も雪が多過ぎるのよ。雪が締まらないから、あちこちで雪崩も起きてたし」 『危なかったな』 「なんだか体調もよくないの」 マリは俺の部屋で2日間ほどぐったりと寝込んでしまった。とにかく栄養のあるものをと思い、肉を炒めたり、キムチ鍋(チゲ鍋)を作って食べさせるとマリはどうにか快復してきた。 「ごめんね。面倒かけちゃって」 マリは申しわけなさそうに俺の顔を見つめ、食器を手に立ち上がろうとした。 「いいから横になってろ」 俺はかつて山行でこれほどのダメージを受けたマリの姿を見たことがなかったので、ちょっとショックだった。 俺も1月末から後期試験が始まる。講義は、ほぼ皆勤(自分でいうのもなんだが、根が真面目で中学・高校でも3年間精勤賞で表彰された)で出席していたので、ノートもばっちり取ってある。つまり、それなりに自信はあった。問題は語学だ。ほとんどが原書なので、さっぱりわからん。現に履修者の半分以上は単位を落とすらしい。しかし、マリにかなり教わったのでなんとかなりそうだった。 無事、試験期間が終了し、あとはまた長い春休みに入る。俺はとにかくバイトに励んだ。 ある晩、バイトから帰るとマリが来ていた。 「ねえ、2月の終わり頃、一緒に田舎に行かない」 『俺は正月に帰ったばかりだよ』 「うちの両親、特に父があなたに会いたがっているのよ」 『へえ〜なんでまた?』 「わたしもキタノくんはバイトとかで忙しいっていったんですけど」 『まあ、少しならつき合ってもいいよ』 「ごめんね、父の我がままで」 マリは申しわけなさそうな表情で呟いた。 『それより、この時期なのに山行はしないのか』 「ええ、黒部以来、体調がすぐれないし、あと極限に近い状態での人間関係の脆さというか見たくない部分を知ってしまい、なんだか集団行動が受けつけないの。山は止めないけど山岳部は辞めるつもり」 マリは溜息をついていた。よほど嫌な思いでもしたのだろうか。 『マジマさんたちが、がっかりするんじゃないか』 「でもしょうがないわ。一番の理由はね、あなたとこうしてられる時間がもの凄く貴重な気がするようになったの。なんでかはわからないけど」 マリの言動に俺は得体のしれない不安が込みあげていた。 もし、マリが忽然と姿を消してしまったら、俺はどうなってしまうのだろうか。絶対に考えられない。 「まあ、たまに単独で山行を楽しむ程度でいいわ」 『俺が登山を始めると言っても』 俺も山行に興味がなかったわけではない。ただ山は道具や服装などで、相当な額の初期投資が必要となる。それゆえに敬遠していたのだ。 「え、キタノくん、登山したいの。それなら喜んで一緒に行くよ」 『今すぐは無理だが、いずれ』 「それまで楽しみに待っています」 数日後、実家に再び帰省する。そして、その翌日、駅近くのフランス料理店でマリとマリの両親と会食をすることになった。この日も激しく雪が舞っていた。 「やあ、久しぶりだね、キタノくん。都会で洗練されたせいか、男振りが上がったんじゃないか」 マリの父は俺の顔を見るなり相好を崩したが、なんだか以前より急に老け込んだ気がした。 『どうもすっかりご無沙汰しております』 「向こうでもマリがお世話になっているんですって」 マリの母が話しかけてきた頃、コース料理が次々に運ばれてきた。ワインもどんどん注がれ、かなり酔いがまわってくる。おじさんは、もう相当酔い心地のようで顔が真っ赤だった。 「キタノくん、マリとは将来、どうしていきたいんだ」 マリがキッとした表情で、 「おとうさん、こんなところで、なにを言い出すのよ」 たしなめるようにいう。 「そうですよ、あなた。キタノさんやマリはまだ二十歳(ハタチ)なのですよ」 おばさんも慌てて口を挟んできた。 「いや、ハタチといえば大人だ。だからこそキタノくんの考えを聞きたいんだ」 『よろしければ、いや、許していただければ生涯一緒に居たいと思っています。自分にはマリさん以外の女性は、今もこれからも考えられません』 言っちまった。自分でもなんで、すんなり言葉が出たのか不思議だった。 「ワッハッハッハ!相変わらず直球ばかりの男だな、キタノくんは。都会できみたちが、どんな生活をしているのかはわからん。ただ父親として、いい加減な気持ちでマリとつき合っている男なら赦し難いと思う。なにせマリは自慢のひとり娘で目の中に入れても痛くないほどカワイイもんだからな。でもキタノくんへならマリをやれるよ。きみなら絶対にマリを大切にしてくれるだろう。もらってくれ」 おじさんは上機嫌で笑っていた。 「そうね、キタノさんならマリの持病のことも理解してくださっているし」 おばさんも相槌を打つ。 「あっ、そうそう肝心のマリの気持ちはどうなんだ」 おじさんは興味津々で娘の顔を覗いている。 「ご想像の通りよ」 マリは目にいっぱいの涙を溜めながら、うつむいている。 「キタノくん、マリは1人前の医者になるまで、まだ何年もかかるぞ。それまで待ってられるのかい」 「おとうさん、お願いですから、そんなにキタノくんばかり追いつめないで」 マリが涙声で横槍を入れた。 「おう、すまん、すまん、マリの婚約者だと思うと、つい説教じみてくるなあ。でも、これで仮祝言も決まりだよ。キタノくんもぼくの息子になった。よろしくな」 おじさんは、また笑い出した。 結局、おじさんは都会で生活する愛娘の様子が心配でならないので、その恋人であるキタノにつき合うなら誠意を持ってつき合ってもらいたいと釘を刺しておきたかったようだ。後日、マリから、おじさんの様子を訊くと、まるで憑き物が落ちたような晴れ晴れとした表情で、毎日、張り切って仕事へ向かっていたそうだ。 この年は、3月後半まで雪が降った。また杉花粉が異常発生し、アレルギー性鼻炎を発症する(これを書いている現在へ至るまで春先になると非常に辛い) 山岳部を正式に退部したマリは、時間がとれるようになり俺の部屋を隅々まで掃除したり、洗濯までしてくれていた。 「面倒だから、もう少し、広い部屋を借りて一緒に住もうよ」 『馬鹿な、そんな真似をしたら田舎のおとうさんが、がっかりするぞ』 「大丈夫よ。あなたとは公認の仲、いえ婚約者でしょ。おとうさん、キタノくんに絶大な信頼をよせているんだから」 マリは噴き出した。 『だから、その信頼関係がなくなるよ。信頼を得るのは月日がかかるけど、信頼を失うのは一瞬なんだ』 「あなた、なんだか説教くさい。田舎のおとうさんに似てきましたよ」 なんの屈託のないマリの笑顔がとても眩しかった。 やがて4月になった。俺は大学2年、マリは3年へと無事進級する。 そして運命の日も確実に近づいていた。 |