8
黒い影
ふと目を覚ますと俺の横で寝ていたはずのマリの姿がない。もう、帰ってしまったのか。しかし、まだかなり早い時間帯である。そんなことを寝ぼけ眼で考えていると部屋のドアが開いた。 「おはよう。起きてたの。しかしさあ、あなたの部屋の冷蔵庫ってなにも入ってないのね。朝食を作ろうと思ったけど、これじゃなんにもできないよ。ちょっとコンビニまで買い物をしてきたわよ」 『いや、つい面倒くさくてね。最近は朝食も抜きなんだ。食事は格安の学食かバイト先の社食で、ほとんど済ませている。なんだか痩せてきたよ』 「朝食をとらないと、その日一日のパワーが出ないものよ。山行を繰り返しているうちに身に沁みて実感してるの」 マリはオーブンでパンを焼きながら、ハムエッグをフライパンで炒め出した。なんとも朝の充実した食事の香が部屋中に満ちている。 「あっ、シャワーも勝手に使わせてもらったわ。タオルも借りたから、今度、洗濯して返しにくるね」 『タオルぐらい俺が洗濯するから置いておけ』 「だって恥ずかしいもの」 簡単だが、マリの作った朝食はとても美味しかった。 マリも食事を終え、軽く化粧をほどこすと妖しいほどの美しい光彩を放つ。 『薬は飲んだのか』 なんとなく照れ隠しに俺は呟いた。 「やあねえ、キタノくん。なんだか、うちのおとうさんみたいな言い方よ」 マリは噴き出した。 「あさってから、中央アルプスで夏合宿に入るの。それが終わったら実家でのんびりするわ。あなたも田舎に帰れるんでしょう」 『俺はこっちでずっとバイトだ。なにせ夏休みは貧乏学生にとっては書入れ時のもんでな』 「なんだ、また当分会えなくなるの」 がっかりした様子で俺の肩へ両手をまわしてきた。そして、どちらからともなく唇を重ねた。 『おっ、おい、朝からその気にさせるなよ』 「もちろん、わたしは、その気のつもりだったんだけど、今朝は、ここまでにしておくわ」 マリは悪戯っぽい表情で、俺の腕の中から離れた。俺は彼女を駅まで送ることにした。空は一片の雲もなく晴れわたっている。 「また来るね。鍵を封筒に入れて下駄箱に置いているのを見ちゃったし」 『いや、しかしなあ。俺、女を初めて泊めてしまったぞ』 マリの顔が陽光に反射して、とても眩しく輝いている。 「あたりまえじゃない。ほかの女を連れ込んだら絶対に赦さないわ」 『怖いんだな、マリは』 「今頃分かった?わたしはね、あなた以外の男は知らないし、今後も知る必要がないわ。ダメって言われてもどこまでも押しかけていくわ」 『おうコワ』 と、いうと俺の手を握り、 「でも、どうしようもないぐらい、あなたを愛してしまったの」 マリに耳元で呟かれ、赤面してしまう。なんとなく俺はマリにすっかり篭絡されてしまったような気がしないでもない。 「またね」 改札口で、マリは少し首を傾げながら、可愛らしくにっこりと微笑んだ。そのしぐさがつい2年前、あの思い出の丘の上で初めて言葉を交わした時代と比べると、とてつもなく大人の女の匂いがした。あの頃が、ずいぶん遠い昔のように感じられた。 驚いたことに大学の夏休みは9月の後半まで続き、俺は働きづめに働いた。そのお蔭でややまとまった金を手にする。そして、ようやく電話を取り付けることができ、マリと毎日のように連絡を取り合えるようになった。 秋が深まった頃、久々にマリとタンデムツーリングへ出ることにした。目的地は伊豆だ。マリは大はしゃぎで前日から泊りがけでやってきた。 「お弁当も用意するわ」 『いや、マリのサンドイッチも久々に食べたい気もするが、せっかくだから地の物を食べよう』 「地の物、いいわねえ。楽しみだわ」 翌朝、早い時間にアパートを出る。当時は第3京浜も横浜新道も西湘バイパスも2人乗りは禁止だ。つまり、すべて下道となる。 ところどころで渋滞している中原街道を延々と走り続け茅ヶ崎海岸に出る。そして最初の休憩をとった。 「なによ、このシートお尻が痛くてたまんないわ。それにこの甲高いエンジン音と排ガスが凄過ぎる」 『ああ、このRZはタンデムツーリングをするには確かにつらいなあ。2サイクルっていって、どちらかというと加速を楽しむバイクなんだ』 「前のCBXの方が絶対によかったわ」 『それじゃ、このバイクのタンデムシートは、マリの指定席ではなく自由席ということにするか』 「それはダメ。ごめん。もうモンクはいわないから、指定席のままにして」 『冗談だよ。でも来年には試験場で大型免許を取るつもりだから、それまで我慢してくれ』 俺は吹き出してしまった。 湘南海岸を快走し、箱根に入った。やはりターンパイクなどの有料道路はタンデムが禁止なのでR1をひたすら走る。しかし下道ばかりだと本当に伊豆は遠かった。ようやく修善寺に出た頃には、昼近くになってしまう。ここで善寺蕎麦を食べたがコシがあり、とても美味しいとマリも満足していた。 西伊豆スカイラインからの眺望も満喫し帰路に着いた。帰りは大磯付近で渋滞に巻き込まれるがすり抜けでかわしていく。しかし、渋滞で停まっている四輪の人たちは、永遠に家まで帰れないんじゃないかと錯覚するぐらい動けないでいた。 あたりが暗くなった頃、ようやくマリの住む世田谷の賃貸マンションまで辿り着く。もう、俺はすっかり疲労困憊になっていた。マリの部屋はワンルームだが、実に丁寧に片付けられていた。綺麗好きは相変わらずのようだ。 「今夜は、うちへ泊まっていけるんでしょう」 エプロン姿のマリは、よく冷えたビールを小さなテーブルに運んできた。 『すまんが、遠慮なく泊めてもらうよ』 「これから横浜までオートバイで引きかえしたら大変よ。ゆっくりくつろいでね。今、晩ご飯を用意するから」 俺が2杯目のビールを飲みかけたとき・・・ 電話のベルがなった。 「はい、ミゾグチですが」 「・・・・・」 マリは、明らかに嫌悪しているそぶりだった。 「今、ちょっとお客さんがいるので、電話を切らせてもらいたいのですが」 「・・・・・」 「え、そんな困ります」 「・・・・・」 「本当に切りますね」 悪質な電話の勧誘か? 『マリ、どうかしたかい?大丈夫か?』 俺は見かねてマリへ声をかけた。 マリは受話器から、少しだけ顔を離し、 「大丈夫よ、すぐ切るから」 といいながら、 「では失礼します」 と、電話を切ろうとした時、マリの表情が変わった。 「なんですって。男でもいるのかですって。そんなわたしのプライベートなこと、先輩にはまったく関係ないでしょう。失礼じゃないですか」 「・・・・・」 「じゃあ、はっきり言わせていただきます。今は彼との大切な時間です。あなたに邪魔をされるいわれなどまったくありません」 マリは怒ったような険しい表情で電話を切った刹那、しゃがみこんで激しく咳き込んだ。 『大丈夫かマリ。やはり疲れたんだな』 俺はそっとマリの背を撫でた。 なにやらただならぬ雰囲気が漂っていた。 |