7
氷解
「キタノくん、生きて」 『マリ?』 「わたしのことをひとりにしたら絶対に赦さないわよ。たとえ、どんな運命になってもわたしは生涯あなたから離れることなどあり得ないわ」 マリはよく澄んだ瞳で、俺の姿をじっと見つめてくれていた。 でもなぜか次のシーンでは、雪の上でマリが倒れている。彼女は、微動だにせずうつ伏せの状態だった。その次のシーンは、学生服姿の俺がぐったりとしたマリを背負って猛吹雪の中を彷徨い歩き続けていた。俺の瞳からは涙が溢れ出ている。 なにかを暗示しているようで、哀し過ぎる情景である。 『マリ!』 はっとして目を醒ますと病院のベットの上だった。 「どうやら、無事、お目覚めのようね。わたしは、マリさんじゃないわよ。マリさんって、あなたの恋人?」 看護婦さんが、俺の手を握ったままで吹き出した。 「しかし、あれだけの事故で、よくこの程度のダメージで済んだものだね。まるでスタントマンだな。脳震盪と全身打撲だが、意識さえ戻れば、もう大丈夫だ。きみのバイクに突っ込んできたライダーは命に別状はないが、あちこち骨折して大変な重傷だよ」 分厚い眼鏡をかけた医師は、顎髭を撫でながら呆れたような表情をしていた。 CBXはフロントフォークが折れ、キャブも割れてしまい廃車の運命になった。だが、相手のセンターラインオーバーという重大な過失責任で、かなりまとまった額の保険金がおりた。 もう、これに懲りてオートバイは降りなさいと親から厳しく諭されたが、俺はこればかりは、どうにも譲れず秋にはRZを購入する。 マリからは定期的に手紙は届いていた。でも、なんとなく事故のことには触れずに簡単な返信のみを繰り返していた。 12月になると山岳部は本格的な冬山シーズンのピークとなる。マリから手紙を出す閑がなかなかなくて申しわけないというという連絡があった。暮れから正月にかけての冬休みの期間もアルプス方面への山行があり、やはり帰省できないそうだ。 俺は頭の片隅で、どこかマリに巧みに避けられているような気がしておもしろくなかったのも事実だ。 2月の中頃には帰省できるから会ってという手紙がマリから届いた。しかし、その時期は、俺の大学受験の真っ只中で、東京府中の叔母の家に泊まりこんでいた。結局、マリと会うことができず、ますます溝が深まったような暗雲が立ち込めていた。 すれ違いばかりで、俺はマリとの縁もこれまでのように感じていた。 その頃、ようやく合格通知が届く。進学先は、都内ではなく横浜市内の大学の経済学部に決定した。過度な親切がなく、そのくせ自主性を重んじる学風がなんとなく学生の自由を尊重しているようで俺の性に合っていた。しかし、なぜかマリに連絡する気にはなれなかった。やはり俺は、ヨシバの話に拘っていたのかも知れない。 3月も山岳部では意欲的に活動する時期だ。マリからの連絡もない。 俺は、例のピアニスト、つまり、府中の叔母の家を拠点に横浜市内の不動産屋をまわりアパートを決めた。場所は東横線沿線の日吉に決定する。日吉なら大学までも近いし、横浜駅や渋谷へも20分程度と地の利がある。 トイレもシャワーも共同、部屋の間取りは6畳一間。小さなキッチンだけはついている古い木造2階建ての安アパートだ。資金不足なので電話も引けなかった。入居しているのは、慶応大学と写真学校の学生のみである。 4月当初の入学式を終え、高校時代から継続して柔道部へ入部する。学業と部活動をそれなりにこなし、まあ、ざっと有意義な日々を送っていた。 5月になるとインカレ予選があり、団体戦に出場するも、あまりにもレベルの違う選手に一瞬で投げ飛ばされて惨敗を喫す。かなり自信を失う。 それでも6月には、初段クラスの選手を相手に7人抜きを完遂し、講道館柔道二段に昇段する。 7月、福島の実家よりマリからの手紙が転送されてきたが封を切らないでそのままにしてしまう。 この頃、奨学金と実家からの僅かな仕送りでは、とてもとても生活していけない事実に気づく。バイトをして現金収入を得ないとアパートの家賃すら支払うことが困難な状況に陥ったのだ。 やむなく柔道部主将のカドワキという4年生へ退部を申し出た。カドワキは練習でこそ厳格な男なのだが普段はとても情が深い好漢だった。 「キタノ、今、おまえに辞められたら困る。なんとかならんか。7人制の団体メンバーも組めなくなるんだ」 『カドワキさん、今までお世話になったことは感謝していますが、背に腹はかえられません』 俺もここで辞めたくないのが本音だが、こればかりはどうしようもなかった。 「わかった。でもせめて籍だけは柔道部でいてくれ。練習は都合のいいときだけ参加すればいい。あと団体戦のメンバーが足らないことがあったら大会へは必ず出場してくれ。頼む」 『しかし、それではあまりにも・・・』 俺は躊躇ったが、結局、カドワキに押し切られてしまう。 バイトは日吉駅近くのスーパーで始めた。仕事の内容はラベル貼りや品出しなどの地味な作業が多い。それでも夏休みに入った頃、ようやくバイトに慣れてきた。そんなある夜、俺はスナック菓子の品出し作業をしていた時だった。もう時間は21時近い。 「キタノくん?」 聞き覚えのある声がした。振り返ると懐かしいマリの姿があった。 「どうして、なんの連絡もくれないの?」 マリは涙ぐんだ顔で、ぽつんと寂しそうに立っている。 「あなたの実家から教えていただいた住所を辿ってようやくアパートを見つけたわ。そして、隣の部屋の方から、ここでバイトしているって訊いたから」 一別以来のマリは、なんとも可憐な美しさにますます磨きがかかっていた。 『もうすぐ、仕事を終えるから、すまんが外で待っていてくれ』 胸が締めつけられる思いをしながらマリに告げた。 「キタノ、事情はわからないけど、こんなところで女を泣かせるような真似だけはするな。おまえらしくもない。タイムカードは押しておくから今夜はもうあがっていいぞ」 その場の異様な空気に気づいた年輩の普段はとても寡黙な店員が俺に言ってくれた。なんとなく人情映画もどきの雰囲気が多分に残る古き良き昭和という時代だったのかも知れない。 「キタノくん、どうしてこんなにわたしに冷たくなったの」 外に出るとマリは俺の顔をじっと見つめている。そして澄んだ瞳から大粒の涙がこぼれだしていた。 『い、いや、マリにいい人ができたようだし。それに俺ではおまえの役不足だよ』 苦しい言いわけだった。 マリは胸元から俺の第2ボタンのついたネックレスを取り出した。 「馬鹿ねえ。わたしは、毎日このネックレスをつけていたわ。そんな女があなたを裏切れると思うの?」 ぞんがい穏やかな口調に俺は驚いた。俺は、かつて自分のガクランについていた第2ボタンを見た瞬間、なにもかもが氷解してしまう。マリは少しも変わることなく一途に俺を思い続けていてくれた。俺は彼女になんて酷いことをしていたのだろう。 『マリ、俺が全部悪かった』 俺は自分の狭量を素直に詫びた。 「だったらさあ、居酒屋でビールぐらい奢ってよ」 ちょっと首を傾げながら微笑む、マリ独特のとても可愛らしいしぐさを見せた。 『おまえ、酒を飲むようになったのか』 「だって山行の打ち上げとか、いろいろつき合いもあるのよ」 後年のヨッパライダーもこの頃は、普段、まったく酒を飲む習慣がなかった。とりあえず、駅前の居酒屋でマリとビールを散々飲んだ。 「確かにこの1年、何人もの人から告白されたわよ。でもわたしには大事な人がいるからと躊躇わずにお断りさせていただいたわ。あたりまえじゃない。わたしには、あなたしか考えられないんだもの」 店の中は閑散として客の入りが少なかったが、バイトらしい店員がマリの放つ尋常じゃない美しさへ驚いたようにちらちらと視線を送っていた。 俺も事故でCBXを失いRZに買い換えた話をすると、 「どうして、そんな大変なことを、わたしに一言もいえないの」 こっぴどく叱られてしまった。 やがて酔いがまわったのか、マリは急に無口になり、とても眠そうな表情を浮かべていた。有線からは”悲しい色やね”の歌声が哀愁を帯びながら流れていた。 『終電が近いぞ。もう帰ろう』 俺はマリに告げた。 外へ出て夜空を見上げると、ひどく細長くて危なっかしい三日月だけが微かな輝きをみせていた。 「もう今夜は帰れない。キタノくん、オンブして」 『馬鹿だな。俺だって男だぞ。男くさ過ぎるぐらいな』 「キタノくんならいいわ。ただ、あなたの傍に少しでも一緒に居たいだけなの」 マリは俺の肩へ寄りかかってきた。 俺は久しぶりにマリを背負う。 「あなたの背中の匂い、なにもかもが懐かしくて、なんだか泣けてくるわ」 マリは安堵したように俺の背中で眠ってしまった。 先ほど居酒屋の有線で流れていた、この年の大ヒット曲、上田正樹の”悲しい色やね”の歌詞が耳元にずっとこだましていた。 アパートに着き、俺のあまり清潔感のない布団にマリを寝かせた。 『事故に遭って意識を失っていたとき、マリが夢の中へ現れて、ずっと俺のことを励ましていてくれたんだ。でもその後にな・・・』 6畳一間のおんぼろアパートには、マリの寝息だけが微かに響いていた。 |