疑惑



 いよいよマリが上京する日がやってくる。

 10時46分発の上野行の特急に乗ると言っていた。俺はCBXのスロットルをあげ、駅に向かう。空はよく晴れ渡っていたが、流石にまだ肌寒い。

 ヘルメットを抱えながら階段を昇りホームへ着くと両親と一緒に電車を待つマリの姿が見えた。マリのきらめくような美しさは、誰もが振り返るほどの強烈なインパクトを放っている。
「キタノくん、やっぱり見送りに来てくれたんだ。ありがとう」
 俺の姿を見つけたマリは満面の笑みを浮かべた。白いコートを着て、手にはボストンバックひとつを抱えている。1泊か2泊程度の旅行に出るような格好だった。
「キタノくん、すまないなあ」
 マリの父親は寂しそうな顔をしながら、しきりにホームの時計に目をやっていた。
『いえ、どういたしまして』
 おじさんの哀しそうな横顔を見ると、とても気の毒になってしまう。

「一足先に東京へ行ってるわね。向こうで待ってるから、来年は必ず合格してよ」
『ああ、きっと』
 マリの両親は、気を遣っているのか、俺やマリのいる位置から目をそらしているように感じた。
「バイクで来たの」
『ああ』
 マリは柱のある方へ俺の手を引いた。
「これを見て」
 マリは胸元からネックレスを取り出した。ネックレスにはなんと俺の制服の第2ボタンがぶら下がっている。
「このネックレス、肌身離さずつけてるわ。あなたとずっと繋がっていたいもの」
『俺のボタンもずいぶん報われたようだな』
 俺は思わず吹き出してしまう。
「あっ、あと、お願いがあるんだけど。でもわたし、あなたにいつもお願いばかりしてきたような気がするわ。ごめんね」
 マリの瞳は潤んでいる。
『なんだよ、俺のできる範囲のことなら、なんでもしてやるぞ』
「馬鹿みたいだと思わないでね」
 ほとんど涙声になっていた。
「あなたのバイクの後ろには誰も乗せないで。わたしだけの指定席のままにしてもらえない」
 意表をつくマリの願いに俺は唖然としてしまう。
「やっぱり無理よね」
 彼女は下を向いてうつむいた。
『おまえがそうしろと望むなら、俺はタンデムシートには生涯マリしか乗せない。マリの指定席にするよ』

 タンデムシートは指定席

 俺のライダーとしての生涯に渡る命題をまさに背負う瞬間でもあった。

 マリは俺の顔をじっと見据えている。そして大粒の涙を流しながら俺の胸にしがみついてきた。
『マリ、馬鹿な真似はよせ。すぐそこにきみのご両親がいるのに』
「大丈夫、ここは柱の蔭の死角だから誰からも見えないわ」
 俺は自然にマリと唇を合わせてしまった。
「柔道の試合を観てキタノくんが気になってしょうがなくなったの。そして、あの丘の上で、あなたと初めて言葉を交わして以来、ずっと、いえ会えば会うほど胸が張り裂けるぐらい優しいあなたに惹かれてしまったのよ。オンブしてもらったときのことも忘れられないぐらい嬉しかった。あなただけを愛していたわ。きっとこれからも永遠にこの思いは変わらない」
 マリの言葉には流石の俺も閉口してしまい、涙が頬をつたった。
「時々手紙を書くから読んでね」
『ああ、わかった』
 マリはようやく俺の腕の中から離れた。やがて出発の時刻が近づき、マリは電車に乗った。ベルが鳴り、ドアが閉まる。マリはずっと泣いたままだった。ゆっくりと列車は動き出し、堪えきれなくなったマリの母もハンカチで目頭を抑えていた。そして、マリの姿は見えなくなり、最後尾の車両も視界から消えていく。

「寂しくなるな。マリはキタノくんとつき合うようになって、ずいぶん明るくなったんだよ。以前は、ちょっと気難しい子でね、学校での出来事を自分から話すことなどなかったんだ。表情も穏やかになったし」
 マリの父がぽつりと言った。
「うちは、一人娘のマリが居なくなるとかあさんとぼくのふたりっきりだ。キタノくん、たまには、うちに遊びにおいで。飯ぐらいなら、いつでもご馳走するよ」
 おじさんは放心したように線路の方へ目をやり、やがて、ゆっくりと歩き出した。

 俺は、心のどこかに巨大な空洞ができたような気持ちになり、マシンに跨っていた。

 月が変わり、俺は紺ブレとグレーのスラックスを新調し、予備校へ通うようになった。それなりに真面目に講義を受け、家でも毎日勉強は欠かさなかった。恐らく受験戦争というやつが最も加熱していた時代だ。高倍率の首都圏の大学へ合格することなど至難の技だったと思う。ただCBXのローンが残っていたので早朝の新聞配達だけは高校時代から継続していた。借金ばかりは自己責任なもので。

 4月の半ばには早くもマリから手紙が届いた。なんと山岳部に入部したと書いてある。体調は大丈夫なのだろうか。女子部員はマリたったのひとりらしい。またドイツ語の講義がかなり難しく苦戦しているそうだ。GWは新入部員歓迎登山会があり帰省できないとも書かれている。俺も近況などを書き返信したが、GWを過ぎるとまたマリから手紙が届いた。マリらしく本当に事細やかな内容だった。

 丹沢方面への新入部員歓迎登山のときのこと。大学の講義のこと。山岳部員のとの関わり。先輩がこんなことを言ってみんなを笑わせたみたいな話とか。読んでいると、この男は絶対にマリへ好意、いや、それ以上の感情を抱いているのかと邪推したくなるような部分もあった。

 やがて季節は夏へと移りゆく・・・

 夏休みもマリは山岳部で奥穂高〜西穂高を縦走する計画があるそうだ。さらに集中講義などもあり帰れなくてごめんなさいという内容の手紙を書き送ってきた。これじゃあ、俺なんかよりもおじさんやおばさんがあまりにもかわいそうだ。一人娘のマリをあんなに可愛がっていたのに。3月に上京して以来、まだ一度も実家に顔を見せないなんて。

 そんな中、お盆に都内の大学の商学部に進学し、夏休みで帰省中のヨシバと黒珈琲で再会した。そしてあるショッキングな情報を耳にする。
「7月にな、神田の駅前を歩いていたら、ミゾグチを見かけたんだよ。あれほどの美人だから間違えるわけがない。しかも男連れでな。あっ、キタノ、気を悪くしないでくれよ。でもあれはただの仲じゃないような気がしたなあ」

 そ、そんな馬鹿な・・・

 あれほどお互いの気持ちを確認し合ったマリが、他の男と親しげに歩いているなんてあろうはずがない。頭の中では強く否定してみたのだが、俺の心の底へ暗い疑惑が広がってきたのは事実だった。

 そして、悶々とした気持ちでCBXに跨り裏磐梯の峠道を走っていたときだった。まさに一瞬の出来事である。気づいたら、カーブで失速しながらセンターラインをオーバーしてきたオートバイが正面から突っ込んできた。

 危ない・・・

 二輪車同士の正面衝突。実は俺が初めてオートバイでの大事故に遭遇したのは、まさにこの瞬間のことである。本当に突然だったので、かわし切れなかった。まさか見通しの悪い峠道のコーナーリングで黄色い線を突破してくる掟破りなライダーが存在するなど俺は夢にも思わなかった。時間的には数秒の出来事だが、なぜか今も克明に覚えている。

 激しい衝撃が走り、俺の五体は裏磐梯の宙をゆっくりと舞っていた・・・



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