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衝撃



 長い夏休みが終わり、季節は秋へと変わりゆく。

「おとうさんがさあ、あなたにくれぐれもよろしくって」
 マリが元気そうな笑顔で、俺の部屋へ帰って来た。存分にリフレッシュしたようだ。
「夕ご飯はカレーね」
 手際よく野菜をきざむ音がした。
『ありがとう。ご馳走になるよ』
 コンソメのダシが効いたマリの作るカレーは絶品だった。旨さの秘訣は一切手抜きや妥協をせずに丁寧に仕上げることだと言っていた。まさに彼女の生き方そのものだと俺はいたく感じ入ったものだ。

 また、いつもの生活が始まった。俺は講義、部活、バイトの3面作戦で、毎日がヘトヘトだったが、夜はマリから英語を学んでいた。難解な文章でも辞書なしで完璧に意訳してしまう彼女の堪能な語学力には舌を巻くばかりである。

 多忙な日々の中でも僅かな間隙を見つけてはマリをタンデムシートへ乗せ、ツーリングを楽しんでいた。
「冷えるね」
 奥多摩湖で、マリが白い息を吐きながら微笑んでいた。
『そろそろ今シーズンのツーリングは終いかな。間もなく、このあたりにも霜が降りる頃だろう』
 青梅街道の紅葉は既に色あせていた。

 やがて季節は、運命の冬へと突入する。

『久しぶりに外で飲むか』
 冬休みに入ったばかりの夕方、俺はマリを誘った。
「まあ、デート。嬉しい。どこへでもついて行くわ」
 マリは大喜びで身繕いを整え始めた。

 マリを連れ、東横線の横浜方面の終点桜木町駅(当時)で下車する。そして伊勢崎町通りへ向かって歩いた。いつものように通りの入口付近から、露店のおばちゃんが焼く、お好み焼きの香ばしい匂いが漂い始めた。そして、昔ながらの刺繍屋の店前を通過する頃、マリは俺の左手にそっと腕を絡ませてきた。
『マリ、なんだか恥ずかしいよ』
「いつまで経っても、あなたってシャイね」
 昏れなずむハマの街並みの中で、マリは俺の困惑したような横顔を見つめながら苦笑していた。

 入った店は、マーメイドポットという洒落たカフェバーだった。昔、矢沢永吉がまだ駆け出しの頃、ここでよくナマライブをしていたそうだ。当時の横浜には、こういったバーが数多く点在していた。

「今夜は素敵なレディををお連れになりましたね」
 オールバックで彫りの深い顔立ちのマスターが渋い笑みを見せる。
『今晩は。久々に本物のカクテルが飲みたくなってね』
「腕によりをかけて作らせてもらうよ。最近乗ってる?」
 マスターは両腕を前に出し、右手でアクセルを動かす格好をした。
『流石に寒いので、通学に使っている程度かな』
「二輪は乗らないとたちまちバッテリーがだめになるからね。暖かくなったらさあ、一緒にツーリングへ行こうぜ」
 実は、ここのマスターは限定解除をする前に貸コースで知り合い、すっかり意気投合していた仲なのだ。マスターも無事、限定解除に成功して悲願のハーレー乗りになっている。

 テーブル席につくと、
「あの、あなたにお話があったの」
 ソルティドックを片手にマリは真剣な眼差しになった。
『どうした?改まって』
「明後日から山行をするつもりです。もちろん単独行よ。場所は安達太良山。百名山だけど難易度は高くないわ」
『安達太良って、実家に比較的近い、あの福島の安達太良山だよな』
 確かにアルプス方面の急峻な山々には比べる術もない。

 俺はドライマティーニを一気に飲み干した。
「野地温泉の登山口から入り、1日の縦走で岳温泉へ出るだけの軽い山行よ。なんだか体がナマっているし、久々に冬山登山をしてみたくなったの。山行が終わったら実家でゆっくりするわ」
 マリの今までの実績実力等を鑑みると、この程度の山行なら、まったく問題がないとは思うのだが、なぜか事故の多い山でもある。
『しかし、体調は平気なのか』
 正月の黒部登山以来、なんだか周期的に具合が悪くなるマリの体調が、かなり心配だった。でも硬派キタノが惚れ惚れとするマリの性格からいって、一度言いだしたことを撤回することなどあり得ない。
『なんなら、俺も一緒に行くか?』
「馬鹿ねえ、なにを言い出すつもり。初心者がいきなり冬山なんて無理に決まってます。わたしなら本当に大丈夫。前日は野地温泉、翌日は岳温泉の宿に泊まるつもりだから、山中でのテン泊はなしよ。楽なものよ」
 マリは笑っていたが、俺は一抹の不安を禁じえなかった。

「キタノさん、また美しい彼女さんといらしてね」
 マスターの言葉に見送られ帰路に着く。

『なんだか腹が空かないか』
 長崎ちゃんぽんの暖簾を出す「虎富士」という一杯飲み屋に立ち寄った。近所なのでたまに利用する店なのだが、今宵はなぜか、もう少しマリと一緒に飲みたい気分だった。
「あなたが、こんなに遅くまで外でお酒を飲むなんて珍しいわね。でも、とことんつき合うわ」
 マリはプッと噴き出した。

「いらっしゃい」
 カウンター席に座り、ちゃんぽんと酒を頼んだ。他に客の姿はない。
『この店のちゃんぽんは本当に美味しいんだ』
「わたしね、ちゃんぽんって一度も食べたことがないの」
『じゃあ、やみつきになるよ』
 やがて出来上がったひとつ丼のちゃんぽんをふたりで一緒に突っつきながら、チビチビともっきり酒を舐める。

「キタノさん、あんたの彼女かい?」
『まあ、そういことです』
 熊本出身の白髪のオヤジは、遅い時間帯になると自らも酒をぐいぐいと飲みだす。そして、これは寸志だと言いながら俺やマリのコップへ日本酒をなみなみと注いでくれた。
「目が潰れるような別嬪さんだな。わしの先立たれた女房の若い頃にそっくりだ。せいぜい大事にしなよ。ところで、ねえさんは大学でなんの勉強してるんだい」
 オヤジさんは、マリをいたく気に入ったらしく上機嫌だった。
「医学です」
「これはたまげた。頭いいんだねえ。才色兼備か。病院嫌いのわしだが、ねえさんが医者なら皆勤賞で通院するよ」
 大笑いしながら、ゴクンとコップ酒を飲み干した。

 後年、勤め人となった俺が神奈川方面へ出張の折、ふと往時が懐かしくなり、日吉の虎富士を訪ねてみた。だが、お世話になったオヤジはずいぶん前に他界され、店は代替わりしていた。

 もっきり酒を一杯やりながら当時を思い浮かべた。長い眉まで白い[注]”肥後もっこす”だが、慈父のように優しかったオヤジの笑顔が彷彿とした。そしてふと目頭が熱くなる。なにもかもが遥かな過去になってしまった。1980年代は、遠い昔となれりけり。

[注]土佐いごっそう、津軽じょっぱりと並んで、日本三大頑固のひとつと言われる。

 おっと話を当時に戻す・・・

 したたかに酔いしれて店を出ると、いつの間にか外は雪が舞っている。

「大丈夫?ちゃんと歩ける?」
 俺は、すぐそこのアパートまでマリの肩に支えられながら千鳥足で歩いた。
『マリ、俺はな、なぜか今回ばかりは、おまえの山行が不安で仕方がないんだ。山では絶対に無理をするなよ』
「そんなことを気にして、こんなになるまで飲んだの。バッカねえ、まるで子どもみたい」
 しょうがない人ねえという仕草で俺の背中を優しく撫でてくれた。

 深夜、あれだけ酩酊していたにもかかわらず、俺はなかなか寝つけなかった。マリも起きていたらしい。
「キタノくん、なんにも心配ないからね」
 マリはいつになく激しく身を絡ませてきた。

 いったんマリは、世田谷のマンションへ山行の準備のために帰った。その翌日、俺は東京駅の東北新幹線ホームへマリを見送りにいく。

 山行用のザックを背負った重装備のマリの姿は、すぐに見つかった。
「キタノくん、来てくれたの。嬉しい」
 マリは、いつものように少し首を傾げるとても可愛らしい表情で微笑んでいた。
「キタノくん、今度帰って来たときには、またチゲ鍋作ってね」
『ああ、お安い御用だ』
「夏には北海道ツーリングにつれてってくれるんでしょう」
『俺は約束を破るような男じゃないよ』
「あなたは相変わらず、わたしのいうことばっかり聞き過ぎです。今から尻に敷かれてどうするの。でも、そういうところが昔からとっても大好きだったの」
 マリは吹き出していた。
「あの、ついでにもうひとつお願いを聞いて」
『なんだ?』
「オンブしてください」
『ばっ、馬鹿いえ。ここは天下の東京駅だぞ』
「お願い」
 マリの瞳は、一途な輝きを放っていた。

 負けたよ。そんな哀しげな目で彼女に見つめられたら言う通りにしてやらないと・・・

 マリには、やっぱり敵わない。俺はやむなくマリを背負った。
『ちょっと体重が軽くなったんじゃないか』
「そう?自分ではスマートになったとは思わないけど」
 やがて発車時刻になる。
「あなたの背中の匂い久しぶりで懐かしかった」
『匂いフェチのマリ、気をつけていってこい』
「キタノくん、ずっと、これからも大好きよ。たとえ百年経ってもね・・・」
 マリはぽつりと呟き俺の肩を抱きしめた。新幹線はゆっくりと動き出す。

 なんだか、これが最後の別れのような気がして、とても名残惜しかった。

 空は冬空で、どんよりと冷たく曇っている。

 席に座ったマリは、にっこりと微笑み手をふった。その顔は、俺がかつて子供の頃に教会で見ていた聖母像の慈愛深き表情にやはり酷似していた。

 マリが安達太良へ旅立った翌日、俺はCB750でバイト先へ向かったのだが、途中でスピードメーターがゼロを示して動かなくなる。メーターのワイヤーが切れたらしい。ふと不吉な予感が脳裏を過ぎった。夕刻、バイトから戻るとテレビをつけ、コタツに入った。そして、疲れからかうつらうつらと軽く寝入ってしまう。北風が激しく吹き荒れる夜だった。

 トントン・・・

 ふとドアを叩く音で目を醒ました。
「ただいま!今、山から還りましたよ。あなた、お腹空いてない?お土産を買ってきたわ」
 なんとなくマリがドアの向こうに、にっこりと微笑みながら立っているような気がした。俺はすぐに飛び起きてドアを開けたのだが、外には誰も居ない。気のせいだったのか?

 暫くすると今度は電話が鳴る。

 今度こそは、マリかなと思ったのだが、受話器ごしの人物は、冬休みで帰省中のヨシバからだった。
「キタノか?いっ、いいか、落ち着いて、ようく聞けよ」
 ヨシバの声は、とてもうわずっている感じがした。
「今よう、地元のテレビニュースを見てたんだが・・・」
『どうした?』
 俺は訝しげに訊ねた。
「ミゾグチが・・・」
『え?マリが?どうしたんだ?』
「ミゾグチが、安達太良で遭難したぞ」
『嘘だ。ヨシバ、いい加減なことをいうと絶対に赦さないぞ。俺はな、きのう、東京駅でマリにチゲ鍋を作ってやるって約束したばかりなんだぞ。馬鹿野郎め』
 俺の頭の中は、あまりの衝撃で真っ白になった。
「だからキタノ、頼む、頼むから落ち着いてくれ。しっかりしろ」
 ヨシバの声は震えていた。彼もかなり動揺しているらしい。

 続いてイチハラからも涙ながらの続報、つまり第2報が入った。
「キタノちゃん。残念だ。心中察するに余りあるよ。さっき、ニュースでミゾグチさんが、スキー場付近で搬送されていくシーンまで放映していたんだ。普通、そこまで撮るか。地元のテレビ局にはうちの親父から厳重な抗議を入れてもらった。あと、オレで力になれることなら、なんだってするぞ。なんでも言ってくれ」

「ミゾグチさんが・・・、こっ、こんなことって、あっていいの?キタノくん大丈夫なの?ねえ、しっかりするのよ」
 最後にきた電話、サクライの声は、ほとんど言葉にならないぐらい号泣していた。

 俺は、イチハラやサクライからの電話にどう応答したのか、まったく思い出せない。

 そして、ここから先の俺の記憶は暫くフリーズしてしまった。 




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