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最終章



ローダンセ







 どうか夢であって欲しいと願っていた。だが、マリの亡骸を見て残酷な運命を思い知る。あろうことか、俺の最大の理解者であり最愛の婚約者でもあるマリを失う悲劇に見舞われるなど、とてもじゃないが耐え難いことである。21歳という、あまりにも短い彼女の生涯だった。

 なんで約束を守れなかったんだ。チゲ鍋だって作ってやりたかったし、夏には北海道ツーリングへも連れていってあげたかった。

 いろいろな思い出が交錯し、とめどなく涙が溢れる。この3年余り、すべてマリあっての俺だった。俺はこれから、彼女の存在なしでどう生き続ければいいのだ。深い絶望感にさいなまれ、ずっとマリの亡骸の傍で小さくうずくまっていた。いざとなると男というものは本当に脆い。俺の心はこなごなに壊れ、完全に脱力していた。

 マリの端正な顔立ちは、今にも起き出しそうな穏やかな表情で眠っているだけだった。彼女の体は既に病理解剖がなされ、死因が明らかになっていた。凍死ではなく心筋梗塞による病死である。すなわち、単なる遭難事故というケースではなくなった。

 野地温泉の登山口を早朝に出発したマリは、鬼面山、箕輪山の山頂を次々に踏破し、鉄山付近で強烈な吹雪にやられるが、ひるまず安達太良山頂から下山の途につき、ゴンドラリフト近く、すなわちスキー場の最上部付近まで到達していた。

 そこで突如発作が起き、力尽きたようだ。スキー客に発見された時には既に事切れていたという。死亡推定時刻は午前9時半。

 つまり、猛烈な吹雪に見まわれながらも正規のルートからまったく外れることなく、スキー場まで辿りついたことになる。しかも超人的なペースで。山行の途中で、なにひとつ難に遭ってない。遭難の範疇には入らないことになる。マリほどのアルピニストが技術や天候で左右されるはずなどありえなかったのだ。

 マリの病は、全身の血管に炎症を起こす原因不明の難病だが、投薬で症状を抑えることも可能だった。ただ、もっとも問題となるのは心臓に瘤を残す後遺症がでることだ。その場合、薬を飲み続けていても心筋梗塞発作を起こし、死亡する例があるという。まさに彼女の症状に合致していた。マリは、この山行で生きながらえたとしても余命は僅か2ヶ月程度だったらしい。いつの間にかマリの病状は進行してしまっていた。

 また発見された当初から彼女の右手には、なにかが固く握られており、なかなか掌が開かなかったという。数時間後、ようやく掌から出てきたものは、マリが肌身離さず身につけていた学生服のボタンがついたネックレスだった。つまり俺の第2ボタンをしっかりと握りしめながら散華していったのだ。

「このボタンは、マリの形見としてキタノくんが持っていた方がいいな」
 マリの父が呟いた。
『いえ、これは私がマリへ贈ったものです。とても大切にしてくれてました。マリに最後まで持たせてやりましょう』
 俺は彼女の首へもう一度、ボタンのついたネックレスをさげた。

 刹那・・・

 俺はマリの躰を思わず強く抱きしめていた。
『おまえと離れたくない。ずっと一緒にいたかった』
 瞳からマリの顔へ俺の涙がぽろぽろとこぼれてはまた落ちていく。マリの頬についた俺の涙を指先でそっとなぞるととてもひんやりとしていた。

 山岳部の主将だったマジマも告別式に参列していた。
「キタノくん、ごめんね。ぼくはマリさんへ横恋慕していました」
 退部したマリのことをずっと思い続けていたらしい。彼は声を押し殺しながら泣いていた。
「去年、山行の途中できみという存在を知りながら彼女に告白してしまったんだ。マリさんに心を奪われてなにもかもが手につかなくなっていた。きみへの激しい嫉妬心から魔がさしたとしか思えない。もちろん一瞬で拒絶されたよ。けど主将という立場にある人間の言動には幻滅しただろう。美しい心を傷つけてしまったことだろう。きみのことだけを一途に思い続けていたマリさんは、山岳部へこれ以上関わるべきではないと思ったに違いない。ウスキの件もあったしね。とにかく彼女を退部に追い込んだ責任は、すべてぼくにあったんだよ。どうかぼくを思いっきり殴ってくれ」
 マジマが身を震わせて懺悔しているように見えた。
『もういいのです。すべては終わったことです。どうかマリの旅立ちのみを静かに見送ってあげてください』
 それだけでマリもきっと喜んでくれるだろう。つまり俺とマリの磐石な信頼関係の間に他人が入り込める隙間など存在しない。勝手に岡惚れしたマジマが懺悔する必要などまったくないのだ。

 その程度のことなのだが・・・
「こんな卑劣な男でも赦してくれるのかい。やっぱりキタノくんには、あらゆる面で負けていたようだな。マリさんへ横恋慕するなんて、愚かなことだった。ぼくは将来の社会的な地位の高さがあれば部外者には絶対に負けないとどこかで奢っていた偽善者だった」
『負けていただと。マジマさん、あんた、なんか勘違いしてないか。競ってないし、思い上がるなよ。ドクターになれるから、どうしたってえんだ?肩書きだけで、マリほどの女を俺から奪い取れるとでも思ったのか?俺とマリの歴史にあんた程度の男がいきなり介入できるわけがないだろうが。俺はな、マリのためだけに生きてきたんだ』
 マジマの襟元をぐっと握り、言うだけ言ったら、また涙がどっと溢れてきた。
「すっ、すまん」
 マジマはがっくりと肩を落としながら頷き、マリの遺影へ深々と一礼を済ませ寂しそうに踵を返した。

 後年、医師の国家試験に合格したマジマは山村での医療活動を志願した。そして、診療所の独り身の医師として現在も僻地で地道に医療へ取り組んでいる事実を賀状のやり取りから知った。俺やマリへの贖罪から心に期するものがあったのか。ただ住民からは、まるで赤髭先生のごとく慕われているらしい。

 混雑する式場では、ショパンの”別れの曲”が、エンドレスに流れていた。俺がピアノで奏でる最も得意とする楽曲であった。最後に自らマリのために精魂をこめて弾いてあげたかったなどと漠然と考えているうちにぐるぐると天井がまわり出す。そして、俺はふたたび記憶を失った。

「キタノくん、しっかりして」
 どうやら、サクライやイチムラに体を抱きかかえられながらソファーの上へ寝かされていたらしい。俺の意識がようやく回復した頃には、マリの亡骸が火葬され、なにもかもが終わっていた。

「キタノくん、もうマリは、どこにもいなくなってしまったよ。妻はショックで寝込んでしまった」
 おじさんは、気丈にも涙を堪えながら一切を仕切っていた。すべてを滞りなく済ませ、緊張の糸が切れた様子で男泣きに泣いている。
『自分ももう生きていく意義を完全に見失いました』
 俺は、あまりの衝撃から、放心状態に陥っていた。
「馬鹿な考えだけはするな。ぼくは今もきみのことを実の息子同然に思っている。マリはね、その若い晩年にきみのような青年とめぐり合えて、とても幸福だったんだ。どうかマリの分まで長く幸せに生き抜いてくれよ」
 やつれきった顔だった。一番大切なものを亡くし、また一段とおじさんが老けこんだ気がした。

 窓の外は怒涛のように雪が降り続いている。ふと風雪の中を学生服姿の俺がぐったりとしたマリを背負って、泣きながら歩き続けている情景が思い浮かんでいた。裏磐梯の事故で意識を失っていた時に見ていた夢だった。あれは予知夢だったのか?その一途な後姿が、これからの俺の生涯を賭けて背負うべきテーマなのかも知れない。

 やがて俺は大学3年へと進級する。煙草を覚えたのもこの頃だったと思う。
「ねえ、キタノくん。あんたのオートバイってさ、ナナハンじゃん。ちょっと後ろに乗せてよ」
 大学生協の前に停めていたバイクにまたがると、同じゼミのナツミに声をかけられた。近頃、やたらと俺にまとわりついてくる苦手な女だ。

『やだね。俺のバイクのタンデムシートに女は、いや、もう誰も乗せねえよ』
 俺は煙草の火を消しながら、訝しげに答えた。

「ふん!なにが硬派キタノよ。あんたの無愛想、どうにもならないわね」
 ナツミは俺とCB750に向かって悪態をついていた。俺は、かまわずマシンのスロットルをあげ、素早い重心移動と絶妙のアクセルワークで鋭く旋回し一気に加速する。後輪がスピンしても微動だにしない。限定解除のために鍛え抜いた鮮やかなハンドル捌きだ。やがて、インラインフォーの心地よいサウンドだけが俺の耳に響きわたってきた。

 マリを失った俺の心は、まるで抜け殻のようになり、笑顔という表情が消えていた時期かも知れない。マリ以外の女は、とてもじゃないけど考えられなかった。

 月日は流れてゆく・・・

 大学を卒業し、スーツ姿の社会人になるが、俺の一生は学生時代の悲恋体験だけで固く結晶しきっているように思えてならなかった。

 俺は生涯独身を貫くつもりだったのだが、そういうわけにもいかず28歳で2つ下の女性と結婚した。ただ、マリへの真摯な”変わらぬ思い”は、永遠に消し去ることのできない普遍的なものだし、真実を妻に隠すべきではないと判断して結婚前にすべてを打ち明けた。妻に話した内容こそが、このストーリーの全編である。俺の初恋、いやマリと一緒に過ごした3年余りに及ぶ輝ける日々の記録は、俺の熱い青春時代の生きざまそのものとして帰結した。

「マリさん、可愛そう」
 妻は涙を流しながら、すべてを受け入れてくれた上での結婚であった。



 2005年12月某日・・・

 彼女がこの世を去ってから実に21年後、奇しくも俺は野地温泉から岳温泉までのルートを縦走していた。

 安達太良エクスプレス(ゴンドラリフト)の山頂駅が見えてきた頃、マリの終焉の地に立つ。なんだか感慨無量だった。途中、強烈なブリザードに行く手を幾度となく阻まれたが、山頂付近に到達する頃には風も収まり、”智恵子抄”の舞台の通り、本当の空となった。

『マリ、昔、きみからもらったバンダナは今も使わせてもらっているよ。このバンダナを頭や首に巻いて、羅臼岳も登った。人跡未踏の日本最後の秘境、知床岬も踏破できた。ずっと身につけていた』

 俺は用意してきたローダンセの花を一輪雪の上に供えた。

 花言葉は”変わらぬ思い”である。

 あっという間にマリがこの世で生きていた21年という同じ歳月が経過してしまった。俺の髪には白いものが混じっている。もう、あの時代は二度と還ってくることはない。

「キタノくん、ずっと、これからも大好きよ。たとえ百年経ってもね・・・」

 東京駅の新幹線ホームで、彼女が自分へ遺してくれた最後の一言が彷彿とした。

 瞳を閉じるとそこに、若すぎてなにもかもが至らなかった俺に降り注ぐような愛を与えてくれた懐かしいマリの面影が鮮明に蘇えってきた。照れくさくて愛の言葉すら、ろくに口にすることはなかったし、俺は大好きなマリになんにもしてやれなかった。

 いつの間にか涙が滂沱と俺の頬を流れだし、声をあげて泣いてしまう。21年前の時分からずっとこらえていた悲しみの重さはあまりにも過酷過ぎた。こみ上げてくる涙はとめどなかった。

「泣かないで」
 若い女の声がした。
『マリ?』
 振り返ると、今回の山行へつれてきた愛娘ヤヨイの姿があった。娘は中3で大人の女にはなりきれない、まだ無邪気な愛らしさが漂う年頃である。
『い、いや、ちょっと目から鼻水が出てしまったよ』
「パパ、なんでお花を雪の上に置いていたの?」
 娘は、可愛らしく微笑んでいる。

 なんとなく、どこかで見たような気がする笑顔だが思い出せない。

『パパがね、夢のように出逢えた大切な人が若くして命を落とした場所が、ここなんだよ』
「え〜、ママ以外にも好きな女性がいたんだ?」
『馬鹿だな、ママと出会う前のずっと昔の話だよ。でも、身を焦がすような純粋な恋愛だったんだよ。とても頭がよくて優しかった。短かい生涯だったけど、鮮やかに輝くような生き様だった。そうだな、まるで女神様のようにあらゆる人を魅了してしまうような、不思議なオーラが出ていたような気もする』
 彼女はローダンセの淡いピンク色に染まった花びらを見つめながら驚いていた。
「その人とママ、どっちが綺麗だった?」
『さあな?おんなじぐらいだったかな?』
 煙草にジッポライターで火をつけ”本当の空”を見上げた。

 めまぐるしく変遷してゆく時代の中で、懐古主義と呼ばれようが自己陶酔と罵られようが、ミゾグチマリというかけがいのない恋人の記憶を俺は終生忘れることはない。いや、決して忘れてはいけない物語だと思う。

 俺は、たったひとつだけマリに誇れることがある。それは21年間、愛機の後に誰ひとり乗せなかったことだ。たとえ妻でさえも。そう、俺の愛機のタンデムシートは、あの遠い日の約束のとおり、今もミゾグチマリの指定席のままにしていたのだ。硬派キタノの矜持として、生涯、マリ以外の人を乗せるわけにはいかない。

 タンデムシートは指定席・・・

「パパ、なんだか足元がふらついてるよ」
『ヤヨイ、こう見えてもパパはな、学生時代、柔道でバリバリに鳴らした選手だったんだぞ。まだまだ大丈夫だ』
「その話、もう1万回ぐらい聞いたわ。でもやっぱり弱そう。なんならさ、わたしが、パパをオンブしてあげるよ」
『おまえ、パパを年寄り扱いするなよ。まあ、それは置いといて、ヤヨイは将来、なんになりたいんだ?』
「わたし?わたしはねえ、笑わないでよ」
 彼女は、急に真面目な面持ちとなった。

「女医。医師になりたいの。病気で悩んでいる人や困っている人を助けたいの」
『そうか、それは立派な志だな。おまえは俺に似ずとても賢い子だ。ヤヨイなら、きっとなれると思う。是非、初志を貫徹して腕利きのお医者さんにおなりなさい』
 一陣の風で、降り積もった雪が晴天の空に激しく舞い上がった。

「よかった」
『え?なにが?』
「パパの子供に生まれてよかった」
『なに言ってんだよ、おまえ?』
「わたしね、優しいけれど、なんだか危なっかしくて、不器用過ぎるパパのことがとっても心配でならないの。でもそんなパパのことが本当に大好き!ありがとう・・・」
『いっ、いいえ、こちらこそ。君のような可愛い娘に恵まれて最高にラッキーな人生だよ』
「本当?とっても嬉しいわ」
 実に屈託のない可愛らしい笑顔だった。なんか泣きそう。この子を守るためなら、なんだってしてあげよう。たとえ、命を投げ出しても決して悔いはないと本気で思った。これが親馬鹿というやつなのか。

 そして、我が子ながら実に聡明かつ端正な顔立ちの娘の横顔を見つめていると、だっ、だめだ。とても耐えられなかった。俺の頬へまた一筋の涙がつたっていく。

 黙々と下山していく途中、ふと頂上を見上げた。
 
『マリ・・・』

 まるで純愛ストーリーの銀幕がエンドロールのシーンへ移りすぐるがの如く、安達太良山の山頂に、ゆっくりと純白のガスが覆ってゆく。



 1984年12月某日・・・

 キタノくん、愛おしくてならない大切な人。

 いま、安達太良の雪の上にわたしは倒れています。もうすぐマリは、安達太良の「本当の空」へ召されます。意識が消えかけ、手足がまるで動きません。

 あなたからもらった学生服のボタンを握り締めていたら、高校の卒業式の帰りに校門から初めてふたりで歩いたときのことが思い浮かんだの。

 別に隠すことじゃないのにあなたは妙に照れていておかしかった。当時からシャイな人だったわ。

 春風が吹く穏やかな日和でしたね。

 わたしは、そんなあなたがずっと好きでした。

 柔道の大会で、真摯に闘っている勇姿は、衝撃的すぎるぐらい素敵だった。

 一目で恋に落ちていたわ。

 あなたが好きです。

 あなたが好きです。

 あなたが好きです。

 あなただけを愛しています。

 百万回だって言えるわよ。

 これからもずっとあなたのことだけを思い続けます。

 さよならは言わないわ。

 生きてあなたと添い遂げられなかったけど、またいつかきっと、あなたに会いにいきます。

 あなたの傍に還ります。

 わたしね、あなたの一番大切なものに必ず生まれかわってみせるわ。

 次は、あなたから絶対に離れません。

 それまで悲しまないで待っていてくれますか?

 また、マリをオンブしてくれますか?

 かなり不器用だけど真っ直ぐに、そして懸命に生きるあなたの姿は、とっても素敵でした。

 澄んだ優しい鳶色の瞳へときめいていました。

 あなたに会えて幸せでした。

 本当はね、とっくに尽きてしまうはずのわたしの命数が、あなたからもらったパワーで、随分、延長されていたようです。

 あなたは、わたしへいっぱい尽くしてくれました。

 感謝の言葉もでないくらい・・・

 だから、大丈夫、心配しないでね。わたしが居ないぐらいでへこんでんじゃないの。

 しっかりしなさい、男キタノ。ヨッパライダー。北のサムライ。

 馬鹿ねえ、もう充分。わたしのことを、いつまでも引きずらなくたっていいわ。あなたは、もう先に行きなさい。あなたの後ろ姿をずっと見ていたいだけなの。

 それより、あなたの奥様のことをもっと大事にしてあげてね。

 じゃあ、ちょっとだけ行ってきます。あなた、あんまり飲みすぎないでよ!

 大好きなあなたへ・・・            




人生

生きていたいけど

生きていられない

生きていたくないけど

生きなければなない







”天なるや月日の如くわが思へる君が日にけに老ゆらく惜しむも”

詠み人知らず





さらに時が過ぎ、筆者も老いた。

青春の日々は、あまりにも遠い。

でも、青嵐吹く丘の上での眩し過ぎるミゾグチマリの姿は、僕の中で永遠に輝いている。



FIN



北野一機 作



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2007.3.16UP