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限定解除



 久々に柔道場へ顔を出すと新入部員が数名入部していた。

 既に卒業した前主将のカドワキから
「練習は都合のいいときだけ参加すればいい」
 とは言われていたが、俺はバイトで忙しいとはいえ、ほとんど約束を反故にしていたことへ自責の念にかられていた。

 そして、練習の締めの乱取りでは、俺は新入部員に見事な払い腰で投げられてしまう。いくらなんでも1年生にあっさり負けるとは情けない。やはり武道は日々競い合ってこそ上達するものだと痛感する。

 数日後、俺はバイト先を変えた。スーパーを辞め、コンビニにしたのだ。コンビニだと時間に固定されずに1週間のローテーションを空いている時間にシフトすることが可能になり、時間を有効活用できる。つまり講義のない時間帯もバイトができる。そうすることによって、なるべく稽古の時間帯にはバイトを入れず柔道場に日参した。やはり中途半端な幽霊部員というのが性格的にどうにも合わないようだ。

 5月後半のインカレ予選には個人・団体戦とも出場することにする。当日、マリも俺の分の弁当、さらにチームメイトへの差し入れまで用意して応援に駆けつけてくれた。マリは白のハットと青いワンピースという清楚なコーディネイトが実によく似合っており、会場ではとても際立つ存在感を漂わせていた。

 7人制の団体戦は2回戦で敗退。俺は副将で出場し、2試合ともどうにか引き分ける。個人戦は、一本勝で初戦こそ突破できたが、結局は2回戦判定負けだった。なんだか冴えない試合内容である。

「結果は負けでも久しぶりに一生懸命戦っているあなたの姿が見れて熱くなったわ」
 マリは、そう言ってくれたが、俺自身の心中は納得がいかない。やはり稽古不足だと思う。

「キタノさん、あの人、凄く綺麗ですよね。先輩の彼女ですか?」
 新入部員のワカミヤという男が興味津々で訊いてくる。
『まあ、一応そういうことになるな』
 ちょっと照れながら答えると、
「まじっすか。かなり羨ましいですよ。ぼく、ファンになってもいいですか?」
 ワカミヤははしゃいでいる。
『そうか、彼女も喜んでくれるよ』
 俺は柔道もこんな程度の男なのだが、なぜか後輩たちは妙に慣ついていた。

 この夜、マリは奮発してスキヤキを作ってくれた。
「やっぱり、あなたは戦っていないとダメよ。戦っていてこその男キタノよ」
『でも試合は負けちまったし、俺にはなんも取り柄もケレン味もない並の男だぜ』
「ううん、もっと自分に自信を持って。情が深くて気持ちが真っ直ぐなあなたは部員の皆さんの誰からも慕われていたわ。あなたが気づかないだけで、いろいろな人たちを魅了させる、なんだか不思議なオーラが出てるの。だから、あなたは将来、きっとなにかを成せる人物になれると思う。わたしは理屈抜きにそう感じたわ」
 マリの瞳が浮世離れするほど清らかに澄みきっていた。

 その顔が聖母のような慈愛に満ちており、思わずうっとり見とれてしまう。初めて会った時は、キツそうなイメージがあったマリだが、歳月が過ぎるほど確実に穏やかさが増し、内面の美しさもさらに洗練されていた。

「今日は、本当に高校時代を思い出したわ」
 マリは、俺の胸に身を寄せながら呟く。
『ずいぶん遠い昔になった気もするよ』
「わたしは鮮明に憶えてる。あの丘の上であなたと初めて言葉を交わした日のことを。なにか喋らないと永遠に絆が切れてしまうと感じたの。そしてあなたに”煙草を吸いにきたのかと思った”なんて失礼なこといってしまったわね」
『そんなこともあったな。俺はただ夢みたいにマリに出会えた気がする』
 突然、背後からマリに声をかけられ驚いた記憶があった。
「なんとかあなたと接点を持ちたい一心だったのよ。わたしも随分ウブだったものよね」
 マリは自分自身の言葉に噴き出し、やがて静かに目を閉じ俺と唇を重ねた。

 マリは、もう、この頃には、週の半分以上は、うちへ来ていて俺の部屋から直接大学に通うようにもなっていた。さらに俺の左肩に顔を寄せて眠るのが習性になっているらしい。

 大学の講義も興味深い内容が多くなった。自然科学論の教授は熱弁家で、90分間、ひたすら宇宙について語っていた。なんでも宇宙は広がっているとか。そしていつの日か膨張し過ぎて破裂しまう。つまり終わりがある。人の命と同じように。

 文化人類学は、先生が以前、アフリカのある部族に交じって生活していた頃の話をテーマに推移する講義だった。アフリカで生活するうちに原住民の祈祷なども信じられるようになったという。現に病を祈祷で治す瞬間や雨乞いで本当に雨を降らせるシーンを目撃したそうだ。

 日本地誌、世界地誌の先生は同一で、かつて自分が実際に旅した地域を検証していく手法をとられていた。なにせ自分で見たもの感じたものばかりなので、とても新鮮な感じがして興味深い内容である。

 最高学府の講義とはかくあるべし。

 肝心の経済より、やはり俺は人文系に向いていると確信した。俺には損得の機微などわからないし、姑息な手段で他人を蹴落とすシビアな生き方もできない。そして多分、生涯財を成し得ないだろう。つまり現代での立身出世は無理、大時代的な本当に冴えない男なのだ。けど地道でもいいから文系の学術的な専門分野に関わる職業に就きたいとこの頃から漠然と考えるようにもなっていた。

「なんだか、楽しそうで羨ましいわ。わたしは3年生になって、専門性が増してきて、講義についていくだけで大変なのよ」
 内科医を目指すマリは、医学部の専門課程がとても難解らしい。

 前期試験が終了し夏休みに入った頃、俺は一念発起してオートバイの限定解除に挑む。当時、教習所では大型免許が取得できず、試験場での一発試験のみだけが存在する超難関の時代である。百名を超える受験者のうち合格率は10%にも満たないという鬼もはだしで逃げ出す厳しさだった。

 部活、バイトの過密スケジュールの間隙を縫いながら、貸コースで腕を磨き、満を持して試験にのぞんだ。結果は完走したものの試験官も気づかなったクランクでのパイロンへの接触が後刻判明し、1回目は不合格。だが手ごたえは充分掴んだ。

 前回は、オートバイ後方の突き出したガードのバーを計算に入れなかったのが敗因だった。1週間後には二度目のチャレンジを敢行した。今度ばかりは慎重を極めて走行し、完走する。そして晴れて限定解除に成功した。これで憧れのナナハンライダーになった。

 RZ250RRを下取りに出し、中古のCB750Fを手に入れる。この頃、大型バイクのユーザーの需要が極端に少なく、大型マシンの価格がかなり低迷していた時期だと思う。ほとんど差し引きゼロの破格で購入することができた。

「わあ、大きくて乗り心地よさそう。これ、これですよ。わたしがあなたに求めていたオートバイは」
 CB750Fが納車されると、マリは大喜びだった。俺は、マリのこの笑顔が見たいがためだけに事実上不可能と諦めかけていた一発試験の限定解除にチャレンジする勇気を得たような気もする。

『マリ、どこかツーリングで行きたいところはあるか』
「わたしが決めていいの」
『ああ、このマシンでの最初のツーリングは、おまえの好きなところへタンデムしていこうと決めていたんだ』
「優しいのね。じゃあ、遠慮なく房総をリクエストするわ」
『了解!』

 数日後、さっそくマリを乗せてツーリングへ出た。もちろん行先は房総方面。R16を南下し、横須賀の久里浜港を出る東京湾フェリーに乗船した。

「最高、本当にツーリングに向いているバイクなのね。フェリーに乗るのも初めてだし、なんだか新鮮なことばかりだわ」
『来年の夏は、このマシンで北海道ツーリングをしてみるつもりだ』
「本当?もちろんわたしも連れて行ってくれるのでしょう。久しぶりに北の大地に帰りたいもの」
『キャンプ道具とか荷物が多くなるから無理かもよ?』
「嫌よ。絶対に連れてって。キャンプ道具ぐらい私の山用のメインザックで背負うから。80リットルも積めるのよ。連れていかないともう英語を教えないわよ」
『強迫かい?しかし、英語を教えてもらわないと俺は非常に困る。マリには敵わないな。一緒に北海道へ行こう』
「まあ、本当?本当連れてってくれるの。楽しみだわ」
 マリはにこにこしながら俺の姿を見つめていた。夏の東京湾の風に髪をなびかせるマリの美しさは、やはり周囲の脚光の的になっていた。

 40分ほどで千葉の金谷へ入港する。

 房総フラワーラインを快走した。房総半島先端付近の海は、南洋のような景観が広がり驚くほど綺麗な海岸線だった。白浜付近から内陸に入り、金谷のフェリーセンターに引き返す。そして帰途へ。お天気にも恵まれ、とてもいいツーリングになった。

 翌日、マリは体調が悪いといいながら寝込んでしまった。どうも正月の黒部山行以来、マリの体は本当じゃない気がした。

『一度、病院できちんと検査してみたらどうだ』
 俺は勧めてみたが、
「大丈夫、お薬も飲んでるし、これでも一応は医学生なんだから、自分の体ぐらい充分自己管理できるわ。少し休めば平気なの」
 マリは俺の言葉を受け入れず、2日ばかり、ぐったりしていた。

 やや持ち直したマリは、数日後、夏休みということで実家へと帰省していった。

 俺の夏休みは、相変わらずバイト三昧の日々である。 




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