強烈なブリザードが吹き荒れていた。 これがおまえが歩いたルートか。野地温泉登山口から安達太良山頂をめざし、深い雪を踏み分けながら一歩一歩確実に登った。 待ってろ、今、俺はおまえに21年ぶりに会いにいくぞ。 厳冬期の鬼面山、箕輪山、鉄山を次々に突破した。安達太良山の頂上から下山の途につき、ゴンドラリフト近く、すなわちスキー場の最上部付近まで到達する。 マリ・・・ |
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萌芽
1981年9月某日・・・ 高校時代の3年間、ひたすら打ち込んだ柔道部を引退した俺は急に手持ちぶさたになった。いつまでも道場に顔を出しても後輩たちから煙たがられるだけだし。放課後になると校舎の裏手にある丘の草の上に腰を下ろし、ただ黙然と夕陽を見つめていることがたびたびあった。ここは人がこないし、校舎を染める落陽がとても綺麗だった。まあ、自分だけのお気に入りスポットである。 そんなある日、 「あなた柔道部のキタノくんでしょ」 背後から突然声をかけられた。 驚いて振り向くと、同じ学校の制服を着た女子生徒が立っている。 「あなたが、この丘を登っていく姿を見つけて着いて来たの。隣にお邪魔してよろしいかしら」 彼女は、とても可愛らしい仕草で首を傾げた。そして俺の顔を確認するように見つめ、無邪気に笑った。隣のクラスの子だ。名前は確か”ミゾグチマリ”。学年トップの秀才である。やや目がきつめだが、色白で端正な顔立ちをしており、男子からはかなり人気があった。また男遊びも派手だという噂もある。 『どうぞ』 「お邪魔します。こんなところでなにをしているの」 俺の横に座った彼女は、少し足をくずしながら訊ねてきた。 『いや、夕陽が綺麗だからな。それを眺めにきただけだ』 「それだけ?わたしはあなたが煙草を吸いに来てるんだとばっかり思ってたわ」 『まさか』 もちろん高校生だし、柔道に賭けていた自分が煙草など吸うわけがない。俺はスポーツ刈りの頭に手をやりながら噴き出した。ただ、中学高校と6年間、部活ばかりだったので同世代の女性とふたりきりで話すことなどあり得なかった。そして、緊張のあまり動悸が激しく高鳴った記憶がある。 『あのな、この丘へ登る山道にはマムシがいるんだぞ』 「え〜、本当なの」 『ああ、先輩で本当に噛まれて救急車で搬送された人がいたよ』 「怖いわね。でもわたしは山道には慣れているから平気よ。あなたこそ大丈夫なの?」 『俺は、1年の頃から何百回もこの坂を駆け登ってきたが、一度も噛まれてない。たぶん平気だと思う。この坂は”嘆きの坂”と呼ばれるぐらい地獄のトレーニングコースだったしね』 「それはお疲れさまでした。でも、本当にいい眺めね」 マリは、うっとりと景色を堪能していた。 『じゃあ・・・』 この日はなんだか、これ以上は会話が続かず、逃げるように丘を降りてしまった。つまり俺はかなり純朴な高校生だったのだ。それでも翌日も嘆きの丘に登り校舎を見渡していた。 「やっぱり、いたわね」 マリがやってきた。実は心のどこかでこんなシーンを非常に期待していたという事実は否定できないし、なにかとてつもないものが動き始めたような不思議な予感がした。 『マリさんか』 「マリでいいわよ」 彼女も夕陽に輝く校舎を見つめていた。なにか話さないといけないんだろうが、だめだ、なんにも言葉が浮かんでこない。重い空気が漂ったが、ようやくマリが口を開いた。 「キタノくんって、将来のこととか決めてるの」 『いや、なにも決めてない。一応、大学には進学するつもりだ』 本当に部活人間だったので、明確なビジョン、つまり、将来への展望のようなものがまったく存在しなかった。 「へえ〜そうなの。でも、そろそろ決めないといけないわね」 マリは屈託のない笑顔を浮かべ、クローバーの葉を摘み取っている。 『そういうマリはどうなの』 「わたし?わたしはねえ、笑わないでよ」 急に真面目な面持ちとなる。 「女医。医者になりたいの。病気で悩んでいる人や困っている人を助けたいの」 まるで、自分自身に言い聞かせるような、きっぱりとした口調だった。 「そのために懸命に勉強してきたんだし」 見た目が綺麗?なんとなく情が冷たそうで、そのくせ華やかな印象から男遊びが派手という根も葉もない噂が先行していたらしい。そして聡明なマリなら、きっと腕ききの医者になれるような気もした。 「あった。四つ葉のクローバーよ。これを見つけると願い事が叶うんだって」 『珍しいものを見つけたな』 「これ、あなたにあげる」 マリからクローバーを手渡された。 「キタノくん、あなたは何曜日にここにいるの?」 特に決めていたわけじゃない。なんとなく気が向いた日にやってくるだけなんだが、マリに確実に会いたい一心から金曜日の放課後だと答えてしまう。 そして、あたりが薄暗くなる頃、俺はまたしても逃げるように嘆きの丘を降りてしまう意気地なしであった。でも、そっと四つ葉のクローバーは握り締めていた。 密会? というほど大袈裟なものじゃないが、その後も俺は週に一度は丘の上でマリと会い、たわいもない会話を楽しんでいた。マリは存外気さくに日常のこと、家族のこと、なんでも俺に話してくれた。 「わたしの両親は山が好きで、連れて行かれるうちに登山へハマったわ。これがわたしの唯一の趣味かな。キタノくんの趣味は」 『読書だよ』 「キタノくんってさあ、文学青年だったの」 マリは噴きだしている。 「だって、あなたもろ体育会系じゃない」 『ひでえな。俺は歴史小説やミステリー系が好きで毎日読んでるよ。司馬遷の史記まで通読しかけてるぜ。史記は古代中国の歴史上の人物の事績を風化させずに正しく後世へ残すために綴られたんだ。それに単なる記録ではなく登場する人物に血を通わせストーリー化させている大作だ。つまり、人類最大の歴史小説だと断言できるな』 「凄い、高校生が史記まで読んでるの」 『俺の歴史オタクは普通じゃないからな』 俺は自嘲気味に笑い、草むらの上へ横たわると圧倒的な夕焼け雲が目に入ってきた。 この作品は、ミゾグチマリという魅力的かつ聡明な女性の記録である。つまり、彼女の物語も世に決して埋もれさせてはならないと願う俺の超個人的な史記(私記)かも知れない。 当時から現在に至るまでの俺の最大の趣味は本当に読書だった。後年には、ほとんど乱読に近いぐらいの活字中毒と成り果てた。キャンプ中でもひとりなら間違いなくヘッドランプの灯りで本を読みふけるようになる。 「じゃあねえ、ヘッセの”車輪の下”の結末はどう思う?」 『あのエンディングは事故じゃないよ。神童と崇められたハンスが失意の中故郷に帰り、あれは事故でしたでは、あまりにも安直なストーリーになると思うし、主人公が哀れだ』 「人は見かけによらないものね。わたしもまったく同意見よ。あなたがヘッセを読んでいたなんて想像できないわ。というより、この学校でヘッセの文学論ができたなんて嬉しかった」 『実はな、こう見えて俺はピアノでショパンの曲とか普通に弾いてるぜ』 「ショパン?本当に?」 『ああ、東京の叔母がプロのピアニストだから、その影響かな』 「あなたが、ピ、ピアノ?信じられない。あの有名な”別れの曲”とかも弾くの?」 『ショパンの別れの曲か。あの曲はぞんがい激しい音律だな。もちろん弾くよ。俺は東洋の史書と武道を嗜み、西洋の楽器を奏でる類稀な天才肌で古武士然とした不器用なんだ』 「もう、頭が混乱してきてダメ」 『つまり本当はな、なにひとつ極めてないってことなんだが』 彼女は、いよいよ笑いが止まらなくなっている失礼なやつだった。 『バイクにだって乗っているぞ』 馬鹿にされたようで、ムッとした俺は、なにか反撃したい気分になった。そして誰にもいってない事実を告げてしまう。まあ、当時は、免許を取ったからといって校則で処罰されるという規定もない。つまり、がんじがらめで無茶苦茶な現代と違って、自己責任へ重きをなすとても痛快な時代だった。 「うそ〜バイクぅ。この意外性ってなに?あなたって面白すぎる!」 マリは横顔のよく映える女であった。その頬を紅い夕陽が鮮やかに染めていた。 |