大志
7
完全に寝坊だ。 8時は既に回っている。 しかし、若いって素晴らしい。どんなに疲れていても一晩熟睡すれば綺麗さっぱり疲れが取れる。 それより朝食の準備をしてくれているおばさんたちに申し訳ない。慌てて洗顔して食堂へ走った。 すると朝食を食べ終わったらしき男がふたり居た。あれ?昨夜の宿泊は俺ひとりだった気がするが。 「おはようございます」 爽やかに挨拶された。 どうやら昨夜遅くに宿に入ったサイクリスト(ふたりは別行動)たちらしい。もうひとりライダーが泊まっていると聴いて待ってくれていたそうだ。申し訳ない。 「次はバイクで来るよ。自転車だとしんどいのなんのって」 とひとりは語っていた。もうひとりは、またご飯をお代わりしている。 「とても喰わないともたないんで、眼の前にお櫃があるとつい手が出るんだ。ご飯が俺らの燃料だからね」 と笑った歯がとても白かった。 「じゃあ、先に行くね」 『いや、待たせて悪かったな』 「いいって、勝手に待っていたんだし」 と言いながらふたりは出発して行った。 俺も愛機へ荷物をパッキングしようと表へ出た。 すると・・・ 「あんた横浜から来たんだって。宿帳で見たわ」 この宿の娘?だ。 『そうかい。まあそういうわけだ』 「あたし、リョウコっていうの」 唐突に話しかけてくるのは性分からか? 『俺はキタノってえんだ』 「ちょっとお願いがあるの」 『なんだい?』 「バイクの後ろに乗せてくれない」 『・・・・・』 『だめだ』 「少しでいいの」 『だめなものはだめだ』 「ほんとちょっでいいから」 リョウコはかなり執拗だった。 『俺はタンデムしないことに決めているんだ。他人の命まで保障はできない。第一、メットも自分の分しかない』 俺は、予備と称してヘルメットをもうひとつ準備するような助平野郎ではない。 「ヘルメットならあるわよ」 リョウコは玄関へと走り、メットらしきものを手にしてきた。それは工事現場の安全ヘルメット、つまりドカヘルだった。 「お客さんが忘れていったの。これでいいでしょう?」 『いやダメだ』 昨年まで付き合っていた女でさえ乗せたことがないのに。 「ほんとにダメなの」 ほとんど泣きそうになっているリョウコを見て俺は完全に折れた。女には甘いな。 『ほんとちょっとだぞ』 リョウコを後ろに乗せ防波堤の端までマシンを走らせ、そこで停めた。 『ここまでだ』 「ほんとにちょっとなのねえ」 リョウコは、物足りなそう顔を俺に向けた。 『あたりまえだ』 「でもありがとう」 ニコっと微笑んだ。 たくさんのウミネコがかしましい鳴き声をあげながら飛びまわっていた。あとは波の音だけ・・・ リョウコがいつの間にか手にしていたウーロン茶のショート缶を差し出した。 「飲んで」 『ありがとな』 栓を切り、一口飲んだ。 「あたし、正確にはあの宿の娘じゃないんだ。嫁なの」 『ゲー』 ウーロン茶を思わず吐き出した。人妻かよ。知ってたら絶対に乗せなかった。 「あたしの実家の父も漁師なの。今の旦那も漁師。でもあんまり帰ってこないんだ。いくつに見える?」 『俺は23になるが、タメ歳くらいか?』 「19・・・・・」 『ゲポ、ゲポ、ゲポ・・・』 むっ、むせった。 未成年か?ここで俺が悪心出したら犯罪だろう。それにその色っぽさは反則だ。若い頃の竹下景子そっくりじゃねえか。 「高校も中退しちゃったんだけど本当は札幌へ出て普通にOLして見たかったの。もう遅いけどね。結局嫌がっていた父の稼業と同じ家のお嫁さんになっちゃった」 『で、でもな、このあたりの自然とか俺は憧れるぞ』 「あんたは冬を知らないから、そんなことが言えるのよ。氷点下20度以下になるし、流氷も来るのよ」 『そっか。確かに大変だな』 もしかしたらリョウコはあんまり幸せじゃないのかも知れない。19っていったら遊びたい盛りだろう。でも俺はこれ以上は口をつぐんだ。知らない方がいいこともある。 宿へ戻るとリョウコは何事もなかったように玄関先を拭き掃除し始めた。そして俺も改めてパッキングを始める。あれはまるでふたりだけの秘め事のような展開になった。 すべてが整い、暖機しているとおばさんが現れ 「午後から雨だよ。これ持っていって」 と包みを差し出した。おにぎりだった。 「お昼にでも食べてね。朝ごはん余ったから」 『ありがとうございます』 甘えよう。 出がけにリョウコもキーホルダーをくれた。 「交通安全のお守りになるよ」 木彫りの熊のキーホルダー。新品ではない。ところどころ剥げているが嬉しかった。リョウコのキーホルダー、大切には保管していたが以後数度の引越しのドタバタでなくしてしまった。 出発する時、彼女は少し蔭のある笑顔を残しながら手を振っていた。 リョウコ、今も元気なのだろうか。 (時代が昭和から平成となり久しくなった遥か後年、オホーツクの小さな漁村にかつて存在した、こちらの懐かしい民宿の前を通過したが、既に廃墟と化していた) とにかく稚内へ向け北上しよう。俺はオホーツク国道をひたすら走った。途中、今朝別れたばかりのサイクリストを発見。 彼は黙々とペダルを漕いでいた。並走している俺を確認するとなんと言っていいのやら、素晴らしい笑顔を向けてくれた。 ピースサインを送り、俺はアクセルをあげた。バックミラーへ写る彼はいつまでも手を振ってくれていた。 いい旅を。 |