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 よく眠った。ジッパーを開け外に出ると国後島の方角から、圧倒的な勢いで朝陽が輝き出している。本当に神々しい瞬間だ。

 男滝の真下で洗顔を済ませ体を拭いた。風呂に入りたいが、ここにはそんなものはない。人の気配がない野生の動物の王国なのだ。

 昨日、ペキンノ鼻で沈没した登山靴はまだ乾ききってない。濡れた靴で行動するのが、とても億劫な気分だ。

 湯を沸かしているとリョウが起き出してきた。
「おはようございます。キタノさんて、ぼくより遅く寝ているはずなのに起きるのが、ぼくよりも早いんですね」
『おはよう。それは多分、シリエトク踏破で気が張っているからだよ』
「一応、ぼくもかなり気が張っているつもりなんですけど」
 リョウは噴出していた。

 登山用のインスタント食品で簡単な朝食を済ませ、テン場撤収。

 今日は、シリエトク踏破最大の難関といわれる念仏岩と兜岩を突破しなければならない。

 全行程80メートルあまりの崖降りのうち、特に中盤の10メートル以上の垂直降下は震撼するという。あまりの恐怖から誰もが念仏を唱えたらしい。そして、そのまま「念仏岩」と命名された。

 陽はぐんぐんと高くなってくる。

 そして恐怖の念仏岩へ向けての登攀が開始された。凄まじい登りだ。トワインがなければ転げ落ちてしまうぐらいだった。右手には断崖絶壁。滑落したら一巻の終わりだ。

 ピークに達したあたりで小休止。汗まみれになった俺は煙草に火をつけ煙を吐き出した。
「キタノさん、凄い天気ですね。一片の雲もない青空です」
 彼は、これから降る念仏岩の真実をなにも知らないようだ。
『俺が垂直降下手前に出たら合図する。それまでここで待ってろ』
 リョウは神妙に頷いた。

 俺はゆっくり慎重にピークから降りだした。

 やがて、驚愕した。本当に垂直の谷底だ。ここをどうやって無事に降りろというのか。
『いいぞ、降りてこい』
 リョウは、意外に早いペースで降りてきた。
『ここから先は絶対に無理はするな。お互いくれぐれも慎重にいこう』
「キタノさん、ぼくから降下してもいいですか」
 無邪気に笑っている。若いからなのか大胆な発言だ。一抹の不安もよぎったが、彼の意外な敏捷さがあれば乗り切れるか?
『本当に慎重にな』
 リョウは既に2本あるうちの1本のトワインを手にしながら下降を始めている。

 数メートルぐらいは順調に降下していた。

 ところが・・・

「キタノさん、足場が・・・足場が崩れました」
 リョウの絶叫が聴こえた。
『念仏岩はな、足場を頼ってばかりじゃ降りられないんだ。両手を軸に岩を蹴れ。反動でジャンプしながら降りろ』
「そんなこと急に言われても、どうしていいかわかんないです」
 リョウはパニックに陥っていた。

 彼は両手でトワインにぶら下がったまま宙吊りになっている。

『待ってろ。今、行く』
 俺は、もう1本のトワイン(知床探検隊のつき添い用)を手にし、リョウの脇まで降下した。
『自己責任だ、リョウ。俺も自分のことだけで精一杯だ。おまえの力だけで降りてくるんだ。よく見てろ』
 俺は岩肌に足をぶつけ反動をつけながら、一気に下降する。俺も無我夢中だった。その姿でリョウもどうにかコツを呑み込み跳ねるように降りてくる。

 ようやく足場のあるスペースまで到達したときには、まさに精根尽き果てたという状況になり肩で息をしていた。俺は肩から吊り下げているボトルの水をごくごくと飲み呼吸を整える。

「すいませんでした。いい気になってました」
 バツが悪そうに呟いた。
『いや、俺もペキンノ鼻では失態を演じてしまった。とにかく岬まではお互い謙虚に行こうな』
 リョウは恐怖感のせいか額から大量の汗を流している。

 残りの降下もどうにかクリアして念仏岩を突破する。なんという過酷さだろう。暫く休憩というか動けなくなってしまう。もはや満身創痍だ。リョウも座り込んで下を見つめたままだ。なんの予備知識も持たなかったから、あまりの想像を絶する行程に肉体的にも精神的にも相当な衝撃を受けたようだ。

 10数分後、どうにか歩き出した。ゴロタで歩きにくい海岸線をひたすら歩くと兜岩への登攀口に差しかかる。

 やはり強烈な登りだ。

 息をあげながら登りきると、とてもこの世の光景とは思えない。そんな不思議な緑の草原に咲くお花畑に到達する。オホーツクの海がキラキラと輝き、北方領土がとても近くに望める断崖絶壁の頂点のようだ。

 やがて兜岩の降下口を見つけたが、ここも脅威の難所だ。高低差が120メートル。そしてトワインを頼りに降りるしかない。手を離したら海中まで一気に転げ落ちるだろう。

「キタノさん、今度はお先にどうぞ」
 リョウが苦笑いしながら言った。
『かなり怖いが、お先に』

 足場が砂で脆い。当然滑る。

 腕がちぎれるほど痛かった。途中、ここで手を離したら、どんなに楽になれることかと思うほどに。

 もの凄く長く感じた降下だが、20分台ぐらいのタイムか?俺は下から手で丸印をリョウに出した。今度ばかりはリョウもかなり慎重に降りてきて兜岩突破。

『リョウ、これでシリエトクへの難所といわれるポイントはすべて攻略したよ』
「本当ですか。もう、こんなに凄いことばかりは懲り懲りですよ。よかった」
 リョウは心から安堵したような喜色を浮かべている。

 炎天下の中、赤岩へ向けて歩く。赤岩川を通過する頃になると少し風が出てきた。右手には鮮やかな蒼の基調をなすオホーツクがどこまでも広がっていた。

 シリエトクまでは、もうあとほんの少し。幾分、足取りが軽くなったような気がする。




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