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早朝、バンビの鳴き声で目覚める。 磯の香が強い。今日もいい天気になりそうだ。モイレウシ湾の気温が凄い勢いで上昇している。俺はテントから這い出し、湯を沸かしコーヒーを飲んだ。夕べは早い時間にシュラフへ入り、ぐっすりと寝たので、かなり疲れがとれた。 リョウも起きだしてレトルトのお粥を温めている。 俺はポケットから行動食のサラミを数個つまんでリョウに渡した。 『いっぱい喰って、いっぱい水を飲め。ここでバテても誰も助けにこない。いや、これない極地だ』 「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」 リョウは朝陽を浴びながら、若者らしい爽やかな笑顔で応えた。 潮が引いてきたのを確認し、モイレウシ湾を後にする。 海の底を歩いた。海草がたくさん咲いて?いて、まるで海の草原を歩いているような幻想的な気分だ。 そして剣岩が見えてくる。 剣のカタチに見えることから剣岩と命名されたようだが、あまり剣には似ていない。 眼鏡岩の洞窟を抜けるとへつりポイントだ。 去年、仲間が上に向かってへつり、動けなくなったという情報がある。その教訓を活かし、やはり海面すれすれをへつる。 炎天下、延々とゴロタを歩いた。足の裏は肉刺が潰れたところにまた肉刺が出来たようだ。こんなに悪路を連綿と歩き続けることなど生涯初だ。 『リョウ、水は飲んでるか』 「はい、たくさん」 『それならいい』 俺自身もガブガブとボトルの水を何度も飲む。 リョウはデジカメで画像を撮りまくっていた。 『ずいぶん撮ってるね』 「ええ、少しでもルイにこの雰囲気を伝えたくて」 リョウは笑っていた。 ペキンノ鼻突入・・・ 昨年、仲間たちは水没を敬遠し、4時間も山中を高巻いたそうだ。俺は性格的に直球勝負なので躊躇いなくへつりのルートを選択する。 しかし、これが失敗だった。ゴールまであと数メートルまで来てオーバーハングに見まわれてしまう。 『リョウ、すまんが水没するしかないな』 俺は腰までずぶ濡れになりながら海中を歩く。 そして・・・ ずぶん・・・ 俺は深みにはまった。ザックが重くて身動きがとれない。大量の塩水を呑み込みもがいていた。もうダメだ。 その時、俺の顔の横にデジカメのショルダー付きのケースが落ちてきた。俺は藁をもすがる気持ちで、それを掴んで虎口を脱出する。 『リ、リョウ、せっかくルイさんのために撮ったデジカメがダメになってしまったじゃないか』 「いいんです。人の命に勝るデジカメなんてありません。それにXDはたぶん生きていると思いますし」 『すまなかった。そして本当にありがとう』 「気にしないでください」 リョウは優しそうな笑顔を浮かべていた。 その後、昼食をとり、またひたすらゴロタを歩く。 あたりが薄暗くなった頃、ようやく2日目の幕営ポイント「滝の下」へ到達。 テントを張り、夕食を済ませ、俺はペットボトルに詰めたウイスキーをちびりちびり飲む。今夜は星空がとても綺麗だった。まるで空の全面が天の川のように。 「キタノさんは奥さんとどこで知り合ったんですか」 リョウはいきなり俺の個人的な、そして恥ずかしい部分を訊いてきた。 『旅で出会った。最初からなんとなく、この人と生涯一緒に暮らすことになるって思ったよ』 「へえ〜素敵ですねえ。ぼくとルイはとっても普通なんですよ。大学で同じゼミだったんです。文化人類学について共同研究していたんですけど、とても気が合って」 リョウは照れ笑いをしている。 「ぼくとルイはいつも一緒だから、その旅の出会いとか知らないんです。キタノさんは旅の仲間とか多いみたいで羨ましいです」 『いや、俺は本当は一匹狼といえば格好がいいが、孤独な旅が多いんだよ。幸い包容力のある友人には恵まれているけどね』 俺は酒で、少し酩酊しているかも知れない。 『ここは日本最後の秘境だ。携帯は繋がらないし、ラジオさえ受信できない。ルイさんと連絡がとれなくて残念だな』 「いえ、ルイはいつもぼくのことを信じてますから平気です。それに病院は医療機器の関係で携帯は厳禁だし」 リョウは穏やかに呟いた。 『一杯飲むかい』 リョウにボトルを差し出すと、 「一口だけいただきます」 ウイスキーをゴクリと飲みこむ。 リョウも、これだけで酔い心地らしい。 真っ赤な顔で、 「キタノさん、旅って一言で表現するとなんだと思いますか」 リョウの体は揺れている。 『難しい質問だな』 俺は煙草に火をつけた。 『出会いと別れかも知れない。俺はリョウぐらいの年齢のときに最愛の恋人を病で失った経験があるんだ。別れは辛い。長い間、自暴自棄になり、精神的なダメージも大きかった。でも悲しんでばかりいてはだめだ。別れは新しい旅立ちの始まりでもあるんだよ』 「え?そんな大変なことがあったんですか。でも実感はできませんが、きのうからキタノさんとずっと行動していて、なんとなくわかるような気もします」 そしてリョウはテントに入った。 ヒグマなのか?怪しげな動物のうめき声が森の中へコダマしていた。 ふと知床の空を見上げると、おびただしい数の星々が夜空の全面を覆うぐらいの勢いで光り輝いていた。 |