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 湾にそそぐ小さな川(モイレウシ川)のほとりにテントを張った。テントは、知床岬縦走のためだけに用意したアライの究極の1人用軽量テント、トレックライズ・ゼロだ。俺はここ半年ばかり、すべてを知床に賭けていたといっても過言じゃない。

 リョウは、モンベルムーンライトだった。まさに旅の定番テントである。

 モイレウシ川で、水を確保する。

 スーパーデリオス(浄水器)で川の水を絞りペットボトルへ継ぎ足した。エキノコックス対策だ。

 その後、夕食。俺は、登山用のレトルトご飯、リョウはインスタントラーメンとパンをかじって済ました。

「キタノさんは、なぜシリエトクを目指したのですか?」

 リョウが、素朴な疑問を突きつけた。

 俺はペットボトルに詰めたウイスキーをぐっと煽ったあとゆっくりと応えた。
『正直、女房には泣かれたよ。なんで、そこまでして知床岬に拘るのかって』

 恐らく、いや間違いなくテントを担ぎ、うようよと棲息しているヒグマの存在に脅え、大変な苦労をしながら歩いてしか辿り着けない岬って、日本では『知床岬』しか、あり得ないだろう。

 今回だけは、流石に掛け捨ての旅行傷害保険に加入した。百パーセント、無事に還れる自信がなかったのかも知れない。

 家のローン、まだ幼い子供のこと、いろいろ考えるとリスクが多過ぎて頭が痛くなったのは事実だ。

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『俺になにか遭ったら使ってくれ』
 旅に出る時、俺は妻に数千万単位の保険証書を手渡した。

 妻の瞳からは涙がポロポロと落ちていた。

「なんで?なんで、そこまでして知床岬に拘るの?」
『大丈夫だよ。飽くまで保険だ。俺は必ず生きて還ってくる』
 そう言い残し、俺は無理矢理シリエトクを目指した。

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 知床上空の星空は雲に覆われ隠れてしまっている。

「いつ頃から、シリエトクを目指していたののですか」
『いつ?たぶん5年ぐらい前からか。ウトロから船に乗り、海上から岬を望んだことがある。感動したよ。でも海上からの上陸は禁止だ。エゾシカを滑落死させるほど過酷な断崖絶壁への難攻、ヒグマの過密地帯、そして悪戦苦闘の果てに自らの足で歩くしか決して踏むことができない禁断の岬という事実も知った。それでも俺は、人跡未踏のシリエトクを絶対に踏破してやると誓った』

「そんなに?」
 リョウは、かなり驚いている。

『ああ、俺の北の旅の最終地は、もしかしたらシリエトクだけかも知れない。それだけ俺は知床岬に賭けているんだ』

『そういうきみも、なんでシリエトクを目指しているんだ?』
 リョウは、一瞬躊躇った表情を見せた。

「ぼくですか?ぼくは地元の小中学生でもいけるなら、なんて甘い考えもありましたし、こんなに凄いことになるとは全然思ってもいませんでした。すいません、なんか認識不足で」
『子供だって、岬でもチョモランマでも南極だっていけるんだよ。ただし、熟練の大人の万全のサポートがあればね。でも、俺らにはサポート隊はない。たった2人で未知のルートを乗り切るしかない自己責任の世界にいるんだ』
 リョウは、静かに頷いた。

「実は、ぼくには彼女というか、結婚したいと思う女性がいるんです」
 リョウは頬を紅くした。
「ルイっていいます。ルイは体が丈夫じゃないので入退院を繰り返しています。今も入院中ですけど」
 急速に気温が低下してくる。俺は、ペットボトルの酒をゆっくりと飲み込みながらリョウの話を訊く。

「ルイが病院の貸本で、知床探検隊の本を読んだんです。羅臼の小中学生が夏休みに難攻の知床岬を冒険の果てに目指す物語です」

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「知床岬にいきたいわ」
 ルイはいつもリョウへ呟いていた。

「きみの体の具合がよくなったら、きっと連れていくよ」
「いいの。わたしに知床岬は無理。でもね、シリエトクで鹿の角を拾うとなんでも願い事が叶うというアイヌの言い伝えがあるの。”シリエトクの奇蹟”っていうらしいわ。リョウ、知床岬の大草原で鹿の角を拾ってきて」
「そんな。きみを置いて行けないよ」
「お願い。シリエトクの鹿の角をわたしに見せて。きっと元気になれるわ」
 普段、我を張ることのないルイの望みを無碍に断ることができなかった。

 リョウは、旅立ちの前に小さな袋をルイから手渡された。
「知床岬に着く前に見ないで。シリエトクに到達したら見て。そして海の見える丘に袋を埋めてちょうだい」
 と呟きながら。

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「そして、ぼくは知床岬を目指したんですよ。なにがなんでもシリエトクで鹿の角を拾うために」
 リョウは、とても真摯な目つきだ。

『飲むかい?』
 俺はリョウに酒を勧めたが、酒が弱いからと首を振りテントに入った。

 とても静かな夜だ。




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