1
「1人で岬まで歩くだと」 相泊の入林届のボックスの前で、若い男が漁師風のよく日焼けしたオヤジから怒鳴られていた。 「どうしても知床岬まで行きたいんです。お願いします」 「なにか遭ったら地元の人間にどれだけ迷惑がかかるかわからねえのかい!」 「なんとかなりませんか」 「2人以上じゃないと絶対にならねえな。羆に喰われにいくようなもんだ」 執拗に粘った男は知床半島の東岸の行き止まりの漁港でポツンと肩を落としている。 俺はマシンから降り、男へ近づいた。 『もし、よければ俺と一緒に行かないか。実は俺も単独で岬を目指していたんだが、やっぱり禁止のようだしね』 「本当ですか」 『ああ』 男の表情は、見る見る明るくなった。まだ幼さを残す顔立ちだが、口元が引き締まり、なかなか精悍な面構えだ。歳は20代前半ぐらいか? 『俺はキタノだ』 「ぼくはリョウ、カミイリョウです。絶対にご迷惑はかけません。よろしくお願いします」 『こちらこそよろしくな。明日の早朝5時にここで落ち合おう。帰りの船は、俺がこれからオッサンに交渉して置くよ』 うまい具合に岬踏破を狙う相棒を見つけた。 リョウと別れ、帰りの船の予約を済ませる。そしてキャンプ場へと戻った。 途中、食料等の物資の買出しも済ませて置いた。そして入念に明日からの岬踏破に向け必要なものだけを取捨選択しながらザックに詰め込む作業に没頭する。 いよいよ機は熟したか。 知床の星空を見つめながら杯を重ねた。ラジオから流れる天気予報も好天が続くといっている。 高まる緊張を抑えながら俺はシュラフに入る。 翌朝、俺はツーリングテントを張りっ放しにし、静かに羅臼町営のキャンプ場からバイクを出す。早朝の気温は涼しいというより、かなり肌寒い。相泊へ向かう道のりがとても長く感じられた。 途中、セセキ温泉あたりで日の出の陽光が鮮やかに羅臼の海岸線を真っ赤に染めていた。 相泊に到着。行き止まりの食堂横の歩道にマシンを停車。メインザックを担いで、漁港まで歩く。 「キタノさん、おはようございます」 既にリョウは到着していた。 『おはよう。早いね』 「よろしくお願いします」 『こちらこそ』 これ以上、会話は続かず、俺らは岬に向かう道なき道へと入っていく。 なにせ日本最後の秘境。人跡未踏といわれるルート、難所をいくつか突破してようやく可能となる実に長い知床岬への道のりだ。旅人の王道といっても過言じゃない。 俺はやはり緊張している。リョウも間違いなく同様のようだ。 ゴロタを暫く歩いているとリョウが、 「キタノさんの装備って完全に登山用ですよね。山登りをされる方なんですか」 俺の姿を見つめながら、話しかけてきた。 『いや、知床岬を目指して、今年から山行を繰り返して体を慣らしていたんだ』 「ぼくは、山の経験はほとんどないんですけど」 『大丈夫だよ。リョウくんは若い。体力は俺よりあるだろう』 「高校までは一応サッカー部でした」 『じゃあ、なおさら』 と言いながらも既に俺の息はあがっていたりする。 途中、熊に襲われた鹿の骨と皮が散乱している光景があった。以後、岬まで20数体の死骸を目撃することになる。知床はヒグマの密集地帯だ。自分も同じ運命に遭う確率もかなり高い。一応、熊撃退スプレーを腰に装着しているが、逆風ならなんの役にも立たないし。 時間の経過とともに陽が高くなり始め、気温がどんどん上昇してきた。額から汗がポロポロと滴り落ちる。既にTシャツは汗でびっしょりと濡れている。 2時間ほどで観音岩到着。 こんな岩をよじ登るのか?岩?いや断崖絶壁だ。 『お先に行くな』 トワイン(船を係留するロープだから強度は抜群)を右手に持ち、全身の力で観音岩をよじ登る。途中、絶対に下を見ないようにしながら。 なんとか登りきり、 『よし、いいぞ』 リョウへ声をかけた。 リョウは、細身で華奢な体だが、いいペースで這い上がってくる。 「怖かったです」 『高低差があるし、ほとんど直角だからな』 「キタノさんは怖くないんですか」 『もちろん怖いよ。こんな崖を登るのは初めてだし』 「そうなんですか。余裕そうに見えるのですが」 『見た目だけだね』 俺が思わず噴き出すとリョウも笑っている。リョウは明るい青年だった。 鬱蒼とした森の中のウナキベツ川を渡った。水しぶきに濡れた丸木橋をどうにかクリアして海岸に出る。 真夏の陽射しがあたり一面を猛烈に照らしだしている。岩陰に逃げ込むように入り、簡単な朝食をとる。偶然、リョウも俺もセイコマのおにぎりだった。 「キタノさんって、バイクですよね。どちらからなんですか」 『ああ、福島だよ。リョウくんは』 「福島ってお隣ですよ。ぼくは仙台市内からクルマです。すると仙台・苫小牧便のフェリーですよね」 『ああ、そうだ。しかし奇遇だな』 俺が答えるとリョウは無邪気な笑顔を見せた。 海は穏やかに凪いでいる。 遠くで昆布漁の船がきらきらと光る水面の上で揺れていた。 |