北海道ツーリングストーリー
8時間ルート
7
ガスで1メートル先の視界も遮られている。ホワイトアウトだ。 「このまま進むのは危険ですね。思い切ってビバークした方が無難かな」 青年は遠くを眺めるような格好で呟いた。 『俺もそう考えていた。時間的にももう遅い。一応、ツェルトなら持参しているが』 俺は歩きながら答えた。 「ぼくもツェルトがあるんで3人でもなんとかなるでしょう」 青年は彼女を肩から下ろした。 彼は周囲を見渡しながら 「ここならキャンプ適地でしょう。スペースもあります」 俺たちは、リュックからツェルトを取り出しきびきびと設営を始め、暗くなる前には野営の準備を万全に整えた。 相変わらず霧は深いが雨はどうやら収まってきた。 青年を見ると落葉を掘り、朽木の乾いた部分を目ざとく見つけている様子だ。さらに和式ナイフで枝を器用に削って焚き火を始めている。しかし、こんなに湿った状態で火を熾すとは・・・ 俺は、登山用のインスタント味噌汁、魚肉ソーセージ、乾葡萄などありったけの食料を出し、3人で火を囲みながら夕食をとった。ラジオをつけても相変わらずロシア語ばかりだが、つけたままにする。彼女が疲れた表情をしていたので、青年が自分のツェルトの中へ入るように促している。シュラフは、少しばっちいが俺のコンパクトシュラフを貸してやった。 青年とふたりきりになった。彼は薪をくべながら 「ぼくは本当に山が好きなんですよ。特に人の少ない冬がいいですね。厳冬期に利尻山、日高山脈縦走、知床連山縦走なども経験してきました」 特に自慢げに話しているわけではなく、淡々とした口ぶりだった。 『真冬に知床連山縦走か、そいつは凄えな』 「知床のときは単独登攀でしたね」 『知床の単独って危険過ぎないかい』 知床連山縦走は真夏でも難易度が高いルートだ。しかも単独で成し遂げるとは。 「知床は藪漕ぎがない分、ぞんがい雪山の方が歩き易いかも知れません。さらにそれなりの装備と技術と経験があれば大丈夫です。ぼくは小学生の頃から父に連れられて山に入ってました」 『おとうさんもアルピニストだったの。血筋ってわけだな』 青年は少し暗い顔をした。 「父はぼくが高校1年のとき、山で遭難しました。初めての海外遠征先のヒマラヤで雪崩にやられました」 俺は、ゆっくりと煙草に火をつける。 「だから母は、ぼくが山に入ることを喜びませんでした。そんな母も病で2年前に他界してしまい、ぼくは天涯孤独なんです」 一瞬、重い空気が流れたが、青年はすぐに笑顔に戻った。きっと根が陽気なんだろう。 俺はポケットからウィスキーを取り出し、瓶から直接腹へ流し込んだ。 「ぼくもヒマラヤ狙ってんですよ。父の遺志を継ぐわけではないんです。山屋なら誰だって一度はやってみたい憧れの聖地なんですよ。ぼくには、まだまだヒマラヤを極めるまでの技術も足りないし金もない。海外遠征って何百万単位の金がかかるんです」 少しだけ蔭のある表情を見せながら微笑んだ。 「でもね、どんなに経験や技術があっても所詮人間の微々たる力で大自然には勝てません。かなりのウェイトで運にも左右されるんですよ。父のやられた雪崩などはその典型ですね」 自分にも納得させるような口振りである。 「本当に誰のせいでもないし、誰にも予測できません。死と隣り合わせなんです。”狼は帰らず”の森田勝、あの有名な植村直己や長谷川恒男ですら遭難したんですから。でも、そのギリギリがぼくにとっての魅力なんです」 青年は大好きな山の話になると止まらないようだ。でも興味深い話につい聴き入ってしまう。 「あっ、すいませんぼくばかり話して。それと今夜はあなたのツェルトへ泊めてもらっていいですか」 『いいけど、あんたたちつき合ってんじゃないの』 「いいえ、エミさんはぼくの恋人じゃありません。お客なんです」 『・・・・・』 俺は言葉を失った。ヨウスケだ。間違いない。周囲の人間を強烈に魅了させる、なにかをもつ若者であった。これでは、カナ、ヨシエの仲の良い姉妹まで、愛憎の略奪愛に発展させてしまうわけだ。本人は天然で気のいい野郎なのだから、この機微を理解することなどできなかったのだろう。妙に得心してしまう。 「今、民宿の手伝いをやってるんですよ。高山植物の解説をしながら8時間コースのガイドもしてます。初めて、このコースを歩くのは普通の人には結構たいへんですからね。ましてや女性1人だったら危険です。天候が急変する今日みたいなこともありますし。先日も酷いガスとお客さんの疲労で先に進めなくなり、宇遠内の売店の納屋を借りてビバークしたばかりなんです」 ヨウスケ?は終始微笑を絶やすことなかった。 『俺はキタノというただの旅人だ。もしかしたら、きみの名前はヨウスケくんっていうんじゃないかい』 「あっ、すいません、キタノさん。滑落事故で動転してしまい、自己紹介もしないでたいへん失礼しました。マスモトヨウスケと申します。でも、どうしてぼくの名をご存知なんですか?」 稚内のフェリー乗り場で俺が出会ったユウキカナからの伝言を話すとヨウスケの狼狽の色は隠しきれなかった。 「ぼくにはカナに会う資格がないんです」 『資格?』 ヨウスケはうつむきながら話している。もしかしたら泣いているのやもしれない。 「実はカナの妹は既にこの世にはおりません。ぼくはカナの妹とつき合いながらカナのことを好きになってしまった最低の男なんです。カナもぼくのことを想うようになっていました。のんびり屋の姉と違い、死期の迫った勘の鋭い妹は、そんな微妙な空気を読み取っていたようです。そしてある晩、入院先の病院から抜け出して、事故に遭い不帰の人となりました。以来、カナも自責の念から精神的におかしくなりました。まだ妹の死を認めていません。だからあなたのような旅人にそんな依頼を繰り返しているんでしょう」 ヨウスケの声は震えているように感じた。 「ぼくも稚内に居たらおかしくなりそうで、知り合いのツテを頼んで礼文に渡り、民宿で働いているんです。そんなぼくが今さらカナに会えると思いますか」 しばらく間があり、 『俺はカナに頼まれてここまで来た。そして俺の役目はこれで終わりだ。ここに残ろうが稚内に戻ろうが、あんたの事情だし、それは自由だ。ただ、あれだけ苦しんでいるカナをあのまま黙って放っておくのか。部外者だが俺は男として気の毒なカナを座視できなかったよ』 そして、また長い沈黙が続く。 時折、焚き火の炎がバキッ、バキと音をたてながら激しく燃え上がっていた。 |