あたりが暗くなった時間帯にようやく国設知床野営場へ戻った。このキャンプ場は低料金のわりに芝がよく手入れされた静かなサイトである。

 ミドリがたどたどしい手つきでテントを張り出した頃、俺は近くの温泉で汗を流した。膝が痛いが、こういう場合、患部はそのままの方がいい。それ以外の筋肉痛の部分をゆっくりと揉みほぐして風呂からあがった。

 彼女のテントは、結構見られるように立てられていた。歪んだ部分もない。テントの設営は経験だけがものをいう。彼女もかなり慣れてきたようだ。

 さて、今夜の夕食はジンギスカンだ。炭を熾しているとミドリがビニール袋から肉を出してくれた。やがて焚き火台から香ばしいラムの匂いと煙がもうもうと立ち込めてきた。彼女と乾杯し、缶ビールを一息に飲んだ。
「本当に美味しいわ。北海道のジンギスカンて、どうしてこんなに柔らかいの」
 彼女はラムを頬張り、満足そうな喜色を浮かべ、忙しくハシを動かしていた。
『本州ではほとんど冷凍のラムしか食べれないからね。道産はタレも格別だ。肉は多めに買ってあるから、いっぱい喰えよ』
「ちょっと食い意地張っているみたいで恥ずかしいわ」
『美味いもんは美味いんだ。腹は正直だからね』
 パチパチと音を立てている炭火が優しく燃えていた。

 やがて腹がふくれ、俺はビールから珈琲酎に切り替えた。
「わたしもワインにしようかしら」
『いいけど、ミドリを背負ってテントに運ぶのはもう勘弁だよ』
「そ、それはもう言わないで」
 恥ずかしそうに笑った。

「キタノさんていくつ?なにをされている方なの?ずいぶん旅慣れてるみたいだけど職業旅人?」
『いいか、非日常の旅系の世界で職業や年齢を訊ねる行為は、かなり不粋で掟破りなことなんだぞ。まあ、俺は特に隠すことがないから、正直に教えるけど。27歳独身、いたって普通のサラリーマンだよ。最初の旅がとっても印象深くてな、学生時代から夏の北海道ツーリングだけは欠かさないんだ』
 俺は腕にとまった蚊をピシャッと叩きながら答えた。
「え?旅人に職業訊いちゃだめなの?知らなかったわ。ごめんなさい。じゃあ、わたしもカミングアウトします。わたしもいたって普通の25歳独身のOL・・・・・だったの」
 彼女は、なにか思い詰めたような表情でワインに口をつけた。
「ある日、上司に関係を迫られたの。最低でしょ。こう見えてわたし、かなりお硬い女なのよ。きっぱりと断ったらなにかにつけ虐められたわ」
 もう一口ワインを飲むとその色白で端正な顔が赤味を帯びてくる。
「なにもかもが嫌になったわ。とどめは『ひとりじゃなんにもできないくせに』と言われたし。確かにそうかも知れないけど悔しかった。いぶりだされるように会社を辞めたわ」
 とても悲しげな瞳をしていた。彼女もたいへんな苦労をしてきたんだ。
『ずいぶん辛い目に遭ったんだな』
 俺は珈琲酎をストレートでグイグイ煽った。

「バイクの運転も上手じゃないし、キャンプなんかしたことがなかったけど意地で家を飛び出してきたわ。自力のキャンプツーリングをしに北海道にね。わたしだって、ひとりでキャンプツーリングぐらいできるって、自分を試してみたかったの。どうしてもあのエロ上司への敗北は認めたくないから。だから、わたしはこのツーリングがいつまでという期限がないわ。でも結局、キタノさんと知り合い、甘えっぱなしだし。昨夜は上陸してからあなたのいないキャンプ場って初めてだったから不安で不安で」
『大丈夫だったのか?』
「わたしがひとりだと知るとキャンプ場にいる男の人たちに何度も声をかけられたの。しつこいし、下心丸見えで嫌らしい連中ばかりよ。今朝もわたしのバイクを途中まで追いかけてきた人までいて怖かった。だから、岩尾別であなたの姿を見つけたときは本当は涙がでたの。やはりひとりじゃなんにもできないって」
『なにいってんだ。きみはまだ初心者じゃないか。旅は慣れだよ』
 多少の器用不器用はあると思うが、旅は場数を踏むと誰でもそれなりの旅人の顔になる。

「でもね。明日から頑張ってひとりで旅してみるわ。ひとり旅を楽しみに来ているあなたの負担になりたくないもん」
『俺は負担だなんてちっとも思わない。でもそう決めたのなら頑張ってみなよ』
「ただ、あなたが帰る前にもう一度だけ一緒にキャンプしてもらえない。わたしの成長した旅人の姿を見せたいから」
 携帯電話など普及してない。確実な口約束をして置かなければダメな時代だ。

『構わないが、俺の旅は行きあたりばったりの旅だ。確実なのは苫小牧から18日のフェリーで帰る。そうだなあ、17日、新冠の判官館キャンプ場でなら約束できるが』
「17日。10日後ね。必ず判官館キャンプ場で待っているわ。約束ね」
 ようやく彼女の顔にようやく笑顔が戻った。

 それから、どのくらい時間が過ぎたろう。俺は外のブルーシートの上でそのまま寝入っていた。

 夢の中の俺は・・・

 俺を捨てた女の名前を叫びながら咽び泣いていた。無様だった。情けなかった。空手道の県大会で決勝にまで勝ち残った男の成れの果ての姿がこれだ。なんて見苦しいのだろう。

 もともと俺は学生時代からずっと柔道部に籍をおいていた。社会人になりふと打撃系に興味が湧き、市内の空手道場に入門した。
「あいつは使いものにならねえな」
「あんなに不器用な空手を見たことがない」
 などと他の道場生からしきりに陰口を叩かれても俺は休まず稽古に通った。

 2年も経つと大会にも参戦するようになるが、いつも初戦負けばかりだった。
「キタノは、百年やってもモノにならないな」
 やはり、俺のことをよくいう者はあまりいなかった。
『なら俺は百年続けるだけだ』
 そんなことをぼんやりと考えていたある夜、普段はまったく稽古に顔を見せない老人が現れた。聞けば老人は、会派の会長に次ぐ重鎮の師範だという。皆からは先生と呼ばれていた。先生は、既に相当の高齢で痩せた体ながら眼光が尋常ではなかった。組手では誰も敵わない。というか技が見えない。一撃でほとんど全員が吹き飛ばされていた。

 稽古が終了した時、俺は師範室に呼ばれた。
「おまえは確かに不器用な空手だが受けが上手いし、技、いや人柄そのものがとても素直だ。さらに動体視力には天賦の才がある。ただ普通の人間と同じやり方だけでは強くはなれないだろうな」
 その晩から俺は密かに恐るべき秘拳を伝授された。時には稽古が深夜にまで及んだことさえある。

 交差法だ。つまり剣道でいう「後の先」という技である。

 ある日、先生がポツリと言った。
「もうワシがキタノに教えることはなにもない。おまえの実力は師範のワシを既に凌駕している。あとは反復稽古だけだ。後の先の極意はな”考えるな、感じろ”。ただ待つのみだ。しかけられれば肉を斬らせて骨を断つ恐るべき実戦の技ゆえ、ルールに守られた試合では限界があることも覚えておけ。そして武道は大会で勝つことが目的ではない。『待つ』ことは人間的にも強くあれという意味も含まれることも忘れるな」
 それ以来先生はまたぷっつりと姿を見せなくなった。

 俺は稽古の後にいつも残り、ひとりでいろいろな場面を想定しながら後の先に磨きをかけた。

 やがて俺は、道場では誰にも負けなくなった。
「キタノの技は卑怯だ。自ら攻撃せずに相手の揚げ足をとる戦法ばかりだ」
 先生から特別に稽古をつけてもらっていた俺へのヤッカミもあったのだろう。またも蔭でいろいろ言うやつもいたが気にしなかった。空手が好きだった。稽古が好きだった。道場の凛とした匂いが好きだった。ただ俺は、最初から人をむやみに攻撃するのが性格的に苦手だっただけだ。

 大会当日・・・

 次々と交差法の秘拳が炸裂し、強敵をすべて一撃でなぎ倒した。ほとんど秒殺の勢いで決勝まで勝ち進んでいく。中には顔面への一撃で、脳震盪を起こし、痙攣している選手もいた。気力が全身に横溢し、まるで負ける気がしない。

 だが、決勝では俺の待つことによってのみ成立する後の先は、手の内を読まれていたようだ。接近戦からの強烈なカウンターパンチの威力を恐れた対戦相手は、当たるはずのない突きや蹴りを俺の制空圏外で扇風機のようにぶんぶんとふりまわしているだけに過ぎなかった。

「キタノ負けるな。相手をもっと挑発するスタイルをとれ!」
 入門してからずっとギクシャクしていた同じ道場生の連中が、俺に必死の声援を送ってくれている。そんな仲間の姿を見た俺は胸が熱くなり涙が出そうになった。

 でも、後の先の一撃のみを狙い、ひたすら構えていただけの俺は、技を積極的にしかけなかったという大会ルールで判定負けを宣告される。ただ待っているだけと敗れるものなのか?頂点には登れないのか?待つこととは失うことなのか?

 俺の恋と同じように?

 その後の俺は、たったひとりの女にふられたぐらいで、あんなに大好きだった道場通いまでも止め、酒が荒れた。尊敬する先生に申しわけが立たないと知りつつも、街でヨタモノ相手の派手なケンカをしたこともある。どん底まで落ちぶれてしまった。

『俺をおいていかないでくれ』
 俺は夢の中で、さらに未練がましく吠えていた。

 すると・・・

「わたしがあなたのことを置いていくなんて絶対にないわよ」
 ふとミドリの優しい声がした?
「大丈夫よ。なんでも一番がラッキーってわけじゃないよ。心配ないの。もう魔法は動き出したわ。たぶん、こうなるように出来てるの」
『え?魔法って?こうなるって?』
「わたしは、あなたのことをずっと待っているから」

 はっと起き上がって見ると
「よく寝てたね。ずいぶん、うなされていたみたいだったけど、きっと登山で疲れてたんでしょう」
 穏やかにミドリが呟いた。

 暫くすると目が冴えてきた。
『ゲッ、ミドリ、俺の傍にずっといてくれたのか』
 俺は不覚にも彼女の膝の上で熟睡していたようだ。
「わたしには、あなたをテントまで抱えていく腕力なんてないから見守ることしかできないの」
 彼女は俺を見て優しく笑ってくれている。そんなミドリがとても愛おしく思えた。
『俺、寝言でおかしなことを言ってなかった?』
「なんにも」
 知床の夜空を見上げながら、また微笑んだ。

『霧多布の時とこれでアイコになったな』
 俺は照れ笑いを浮かべた。
「そうね。でもあなたが寝むっている間も本当に楽しかったわ。空を見て。星の粒子が降りそそぐような綺麗な星空よ。わたし、こんな綺麗な星空を見たの初めて」
『確かに見事なミルキーウェイだ』
「あなたの顔と星空を交互に見てたら首が痛くなってきたわ」
 彼女はとても穏やかな表情で俺の顔を覗いた。
「流れ星に願いごとを言うと夢が叶うって知ってる?」
『ああ、訊いたことはあるよ』
「ふふふ・・・」
『なんだよ?』
「さっき、あなたの寝顔に流れ星の魔法をかけたおいたわ」
『どんな魔法なんだ?』
「ヒミツ」
 彼女は悪戯っぽい表情で微笑んだ。空にはおびただしい数の星々が、光り輝いていた。
『きみもシートの上に寝転ばないか。その方が楽に星空を見れるよ』
「そうね。じゃあ、お邪魔しますね」
 ミドリも仰向けになり俺の腕の中へ自然に身を寄せてきた。彼女の長い髪から、ほんのりと清楚で甘い香りが漂っていた。

 この夜、知床上空は、いく筋もの流れ星が織り成す壮大な天空ショーとなった。

 知床半島はまるで天の領域へ属しているかの如く。 



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