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「気をつけて旅してね、キタノさん」 『きみこそな』 「17日判官館キャンプ場で必ず待ってるからね」 『ああ、忘れないよ』 翌朝、どうしても俺の後姿を見送りたいとミドリが言いだした。俺は彼女よりも先にパッキングを済ませ、マシンへ跨る。ミドリは酷く元気がない。 『10日後、おっと9日後にまた会えるんだから』 「でもなんだか、もう会えない気がして」 ミドリはずっと下を向いている。 『俺に魔法をかけたんだろ』 俺は努めて明るい声を出した。 「カズキ」 ミドリは俺の瞳を覗き込んだ。 『なんだ?』 「好きよ。どうしようもないくらい。ただあなたの傍にいたいだけなの」 ミドリは意を決したように凛とした口調で言い放った。 暫しの沈黙のあと・・・ 『俺もミドリがたまらなく好きだ。だからきみとの約束は必ず守る』 俺も本当は彼女に心から魅かれていた。ただ別れたばかりの女性とカブるところもある。なにより愛するものをまた失うことへひどく臆病になっていた。 「もうメチャメチャ嬉しくて涙がでちゃう」 ミドリは大粒の涙を流しながら笑っていた。純粋に俺を愛してくれている。ゆきずりの恋みたいなものにも躊躇いのある俺へ素直な気持ちをストレートにぶつけてくれた。 『じゃあ、ちょっと行ってくるわ』 「ずっとあなたを待っているから」 彼女は泣き笑いの表情で手を振っていた。 『了解!』 一緒にいたい。けど俺はひとり旅をしなければならないという枷のようなものをまだ背負っていた。このままミドリの好意に甘えるべきではない。別れた女への未練を完全に断ち切るまでは、中途半端に彼女の傍へいるべきではないと自戒していた。 俺は左手で敬礼のようなピースサインを送った。そして、ゆっくりと愛機を走らせる。バックミラーで何度もミドリの姿を確認した。なんと表現したらいいのだろう。実の妹を遠いところへ置いてけぼりにしてしまったような、そんな切ない罪悪感に胸を絞めつけられる思いがした。 その後の俺は猛暑の中、キャンプツーリングをひたすら続けた。オホーツク国道を北上し、宗谷岬を通過する。稚内森林公園キャンプ場でテントを立て翌日には礼文島へ渡った。礼文では久種湖畔キャンプ場へ幕営し、西海岸8時間トレッキングを完遂するなどして数日間滞在する。そして、お気に入りのサロベツ原野を横目にオロロンラインを突っ走り、大雪山系の眺望を楽しんだ。 でも旅が長くなるにつれ、俺の頭の中は確実にミドリのことばかりで一杯になっていく。あいつは今頃、どこでなにをしてるんだろう?正直、愛おしくてたまらなくなっていた。ミドリ、早くおまえのところに帰りたいと何度も胸中で叫んだ。 やがて、約束の17日となる。逸る心を抑えつつ、帯広から浦河へ向かう。途中、ガソリンスタンドで給油をしていると、 「お客さん、ずいぶんとお急ぎのようですね。女ですか?」 従業員のオジサンが噴き出した。大きなお世話だと思いつつも、 『まあ、そんなところだ』 ぞんがい素直に答える自分がおかしかった。 「無事、本懐を遂げられることをお祈りしますよ、お客さん」 なぜか、リポビタンDを手渡された。 『ありがとう』 一気に飲み干し、スロットルをあげる。 抜けるような青空の下、サラブレット銀座をひたすら南下していると渋滞に巻き込まれてしまう。どうやら盆明け早々の道路工事が再開したらしい。すり抜けでかわそうとしたが、途中、道幅が狭くなりまったく動けなくなった。 いらいらしながら前進を断念していると、隣の帯広ナンバーのスカイラインの助手席の窓がスーっと開き、 「あ〜ん、お口を開けて」 けばい感じのオネエチャンから、口の中にキャラメルを入れてもらった。とても素敵なサービスである。 『ご馳走さま。非常に疲れがとれる甘さだ』 「どういたしまして。あんた、どこまで行くの?」 『新冠だ』 「そう、あとほんの少しよ。頑張ってね、ライダー」 彼女が叫んだ刹那、車が流れだした。 『了解!』 いい終わる間もなく俺は鋭くスロットルをあげた。なんとなく全道的に、俺を援護してくれているような気がした。 陽が傾きかけた頃、ようやく判官館森林公園野営場へ辿りついた。早朝からから、ずいぶんと走った。アクセルを握りっ放しの掌は、まだ痙攣している。俺は、さすがに疲労困憊となり、転げ落ちるようにマシンから降り立った。 煙草に火をつけ、東京ドームが14個も入るという広大なサイトを見渡したが人影がまったくない。ミドリはいったいどこにいるんだろう。不安な気持ちで受付を済ませ、そっちこっちを探した。でも彼女の姿はどこにも見えなかった。 所詮、旅先の恋なんて一過性のものなのか。俺は呆然としながらキャンプ場のパンフを覗いた。ん?この丘の裏手にもキャンプサイトがあるようだ。だめもとで行ってみよう。愛機を静かに走らせ、丘のてっぺんから裏側のサイトを見渡した。 すると・・・ 炊事棟の脇にツーリングテントがひとつ、ぽつんと寂しそうに張ってある。すぐ横に停めてあるドラッグスターのハンドルには赤いジャケットがぶら下がっていた。これじゃあ、まるで「幸福の黄色いハンカチ」みたいじゃないか。なんだか俺は噴きだしてしまった。 そして、まっすぐミドリのテントへ向かってマシンを走らせる。エンジン音で気づいたらしく、彼女はテントの中から飛び出し、まっすぐに俺の胸に抱きついてきた。 「カズキ・・・」 真摯な視線と切なそうなオーラが、俺の全身へ強烈に流れてきた。初めて出会ったフェリーのデッキで、今この瞬間をなんとなく予感していた。俺を見る仕草、澄んだ瞳、笑顔、泣き顔、穏やかな表情、彼女のなにもかもが愛おしい。この旅での再会は偶然の連続じゃない。全部必然だったのだ。旅に出れば磁石のように強烈に引きつけ合ってしまう存在なのかも知れない。 「あなたに本当に会いたかった。もし、あなたが現れなかったら、もうホントに立ち直れなかったわ」 涙が滂沱と彼女の頬をつたっていく。 『やっとミドリのところに帰ってこれたよ』 俺は満面の笑みで答えた。 「けど、信じていたわ。きっとあなたが会いに来てくれるって」 『え?ずっと待っていたって?おまえ、何時ごろキャンプ場入りしたんだ』 俺の腕のなかのミドリに訊ねた。 「ごめん。知床であなたと別れて以来ずっとここにいたの。あなたをずっと待っていたかったから」 『なっ、なんだって・・・・・・』 この言葉に俺は愕然とした。俺はミドリになんて酷いことをしていたのだろう。自分のことしか考えない大馬鹿野郎だ。これほど彼女が俺のことを思っていてくれたなんて。俺は別れた女の幻影ばかりを引きずっていた。ミドリの一途な気持ちを少しも斟酌してやれなかった。ずっと傍にいてあげればよかった。 でも、俺はもうミドリを離すことはない。 しばらく時間が経つとやや平静に返った。 「あのね、同じキャンプ場にいてもね、毎日移動してテントの張り方の練習していたのよ。設営撤収の繰り返しだったから少しは上手になったでしょ。きのうまではお盆で、もの凄く混んでいたけど今日になったらガラガラだわ。お蔭で移動が楽になったの。とうとうキャンプサイトの裏側まで到達してしまったわ」 彼女は苦笑いしながら、自分のテントへ目をやった。 『実に見事だ。今度そのテントの張り方、俺にも教えてくれないか』 「いいけど高いわよ」 ミドリは笑っていた。 『そりゃ、勘弁だな』 俺の言葉もほとんど涙声になっていた。 「うっそ!なんでも教えるけど過ぎ去ったことは全部忘れて。これからは、わたしのことだけをずっと見つめていてください」 ミドリの笑顔は、とても晴々としていた。 夜空に輝くお星様も”こいつはなによりだ”と一斉に快哉を叫び、若いふたりの姿をきらきらと過分に照らしてくれていた。 PS. 月日は風の如く流れた。 やがて新しい世紀となり、また数年が経過した。俺もいつの間にか結婚し、マイホームも手に入れ普通の生活の中に埋没していた。もうあの頃の旅の記憶も忘却の彼方へと消えそうになっていた。 ミドリと一緒にセルフタイマーで撮った写真が現存している。すっかりセピア色に変色してしまったが、穏やかで端正な顔立ちの彼女の表情は、いつも優しく微笑んでいるだけだ。まるで、あの頃から時が止まったように。今でも判官館キャンプ場には、彼女が毎日テントを移動しながら俺のことを待っている気がして胸が痛む。 過ぎ去った時代は決して還ってくることはない。 でも青春の日々のほろ苦い思い出は、いくつになっても甘く切ないものだ。 200X年8月初旬・・・ 俺は、妻からすっかり尻に敷かれっぱなしだった。でも年に一度の命の洗濯「夏の北海道ツーリング」だけはなんとか許容してもらっている。この夏もついに北海道ツーリングの旅立ちの日を迎えた。 『じゃあ、行ってくるよ』 「あなた待ってえ〜」 『なんだおまえ、俺にかなり惚れてるな』 妻は噴き出した。 「違うってば、ブレーキランプ切れてるよ」 『マジっすか?あらまホントだわ』 「偉い?」 『おう、偉い偉い』 「あと旅先で浮気したら絶対に赦さないからね」 彼女は妙に含みのある微笑で俺の顔を凝視している。 真摯な視線が辛くなり、ふと空を見上げた。 俺の待ち焦がれた強烈な真夏の陽射しがマシンへ照りつけている。 『よく言うよ。すっかりオジサンになった俺に、そんなことがあるわけないだろう』 訝しげに俺は呟いた。 「そうね。心配ないわね。だって、あなたが北に向かえばどこへ行っても必ず北の彼女に出会って逃げられなくなるのよ」 彼女はにこにこと笑っている。 『なんだよ?それって?』 「そういう風に決まってるのよ。20世紀から」 『え?それじゃまるで、お釈迦様の掌の中の孫悟空みたいだな?』 俺は、たまらず噴きだしてしまった。 「昔々、北の彼女という人が真夏の夜にあなたへちょっぴり流れ星の魔法をかけたそうです。いつまでもわたしのことだけを見つめていてくださいって」 エプロン姿の妻の顔はどこまでも穏やかな表情だった。 やがて俺は、ゼファーイレブンのセルをまわした。 『じゃあ、ちょっと行ってくるわ、北の大地へ』 「わたしは、ずっとあなたを待っているから」 『了解!』 俺は左手で敬礼のようなピースサインを送った。 彼女の目から俺の姿は点になったと思う。なにもかもがあの頃と同じだ。 あの時は、ずっと俺のことを待っていてくれてありがとう。 ”真夏の夜の夢”という物語の中で、ヒロインとして登場した人。つまり、ちょっぴり天然な斉藤由貴似のきみのところへ、もう少しだけ還ってくるよ。 キタノミドリさん! |