ウトロのセイコマで食料等を調達し、国設知床野営場へ幕営した。ここへテントを立てた理由は岩尾別登山口から羅臼岳を踏破するためだ。なんかきついことをしてみたいという自虐的な気分が俺の心の中のどこかにあった。明日の登山に備え早目に夕食をとり、軽く珈琲酎を頬張ってシュラフに入った。しかし暑い。シュラフを脱いで腹にかけてみるとかなり寝易い。そのまま寝入ってしまった。

 早朝に目覚めた。登山の朝は緊張する。羅臼岳はなにせ百名山だし。ザックに必要なものを詰め、マシンに跨り岩尾別へ向かう。やはり時間の経過と共に気温がぐんぐんと上昇してきた。ホテル地の崖の駐車場へマシンを停めて入山届けを書いた。そしてせっせと登り始める。最初から急な傾斜の登りだった。全身へ灼熱の太陽をもろに浴び、息を上げながらもゆっくりゆっくりと足を進ませた。

 途中、弥三吉水という水場で喉の渇きを潤す。水筒にも水をたっぷりと補給した。どうにか疲労が回復したので再び出発。一度汗をかいてしまうとかなり登山が楽になる。見晴らしのよい地点で下界を見ると知床五湖が太陽に反射し、眩しく輝いて見える。絶景だ。さらに登り、銀冷水という沢を抜けると、なんとこんな酷暑の中、残雪があちこちに点在していた。真夏の雪渓を横目に沢登りを続けていると視界が急に広がってきた。やがて羅臼平へ到達する。

 頂上手前の平原”羅臼平”まで来るとかなり風が冷たくなってきたのでジャンパーを羽織った。ここでエネルギーを蓄え一気に頂上アタックだ。凄まじいガレ場を這いつくばるようによじ登る。頂上手前で最高級に美味しい岩清水を飲み、大きな岩を乗り越えると標高1661メートルの山頂へ辿り着く。

 やった。もの凄い達成感だ。360度何でも見渡せる。知床連山、国後島、オホーツクの遥か彼方まで。
「おにいさん、どうだ、この景色。凄いもんだろ」
 たまたま居合わせた初老の男から話しかけられた。この一言で俺の中に溜まっていたかなりの部分のモヤモヤがふっきれる。

 頂上からの下山は滑落する危険があり、慎重を極めながら羅臼平まで下りた。羅臼平は、これから頂上踏破を目指す登山者たちがたくさん待機している。羅臼岳は、やはり人気の山なんだと思った。俺も羅臼平にて、セイコマで購入したおにぎりを出し、簡単な昼食をとる。

「こんにちは。頂上はいかがでした?」
 若い男女のグループのひとりから声をかけられた。
『風がかなり強いけど景色は素晴らしかったよ』
 童顔の女の子に答える。
「わたしたち、北大の学生なんですが、どちらからですか」
『横浜です』
「へえ〜、わたしは東京の出身なんです。学生さんですか」
『いや、数年前に大学は卒業したよ。学生のうちにもっと旅しておけばよかったかな。もっとも今でも旅は続けているけどね』
 俺は笑いながら、水筒の水を飲み込んだ。
「ひとりで旅してて寂しくないですか」
『それは寂しいときもあるけども自分のペースで旅ができるのが最大の魅力だね』
 彼女には、まだひとり旅の醍醐味は理解できないらしい。
「これ、よろしければどうぞ」
 レモンの砂糖漬けを頂戴する。
『本当に美味しいし、疲れがとれそうだ。ありがとう』
 どういたしましてとにっこりと微笑みながら、彼女とその仲間たちは頂上へ向け、颯爽と登り始めた。山で出会う若者って、ひとかどの人物ばかりに思えた。

 俺も下山の途につく。レモンのビタミンで体力が増進されたせいか、帰りは本当に楽だと思った。しかし、銀冷水を降りたあたりで、古傷の膝を少し痛めてしまう。結局、思ったよりペースが伸びず下山したのは夕刻になった。

 登山口で下山届けの記入を済ませ、何気に駐車場の方向を見るとタチゴケしているライダーがいた。バイクが重くてなかなか引き起こせない様子である。膝が痛むが手を貸そう。すぐにザックを降ろしてライダーの方へ向かった。

『ちょっと貸してみて』
 倒れたマシンのハンドルを握り、よいしょとバイクを起こして、サイドスタンドを立てる。ふとライダーの顔を見ると女だ。
『うっ、きみは』
 信じられないことにミドリだった。ミドリも驚きを通り越して絶句している。
『ここまで奇跡が続くとはな』
「・・・・・」
 なんだか彼女はご機嫌斜めのようだ。

 ヘルメットを脱ぐなり、
「どうして霧多布で、黙って消えちゃったのよ。なんで避けるの。そんなにわたしのこと嫌い」
 おかど違いの抗議を受ける。
『おいおい、好きも嫌いもないよ。よく寝てたからなあ。俺は旅に出ると朝が早いんだ。他意はない』
「本当?」
『もちろん』
 単純なやつだ。もう機嫌が直ったらしい。
「ところでキタノさん、こんなところで何やってんの?」
『ちょっくら羅臼岳を登ってきたところだ』
「登ってきたって、あんな高い山を」
 彼女は目を丸くしていた。
『きみこそ、なにやってんだ?』
「岩尾別に無料の露天風呂があるって聞いたから来てみたの」
『俺も今から汗を流しに入ろうと思っているんだが』
「フフッ、ふたりで一緒に入る?」
『ゲッ、相変わらず警戒心とか羞恥心がねえなあ。俺はウトロの国設知床野営場にテントを張りっぱなしなんだ。近くに有料だが露天風呂付きの温泉がある。そっちにするわ』
 俺の方が呆れて、というより赤面してしまった。
「なんだ一緒に入んないの。がっかりだわ。でもキタノさんがテント張っているキャンプ場へ着いていっていい」
 断わる理由などなにもない。
『なんかの縁だ。ミドリ、俺のマシンの後ろを着いておいで』
「やった!」

 オホーツクへ真っ赤な夕陽がゆっくりと沈んでいく頃、2機のマシンが岩尾別のワイディングを足早に駆け抜けていった。



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