「エグチミドリっていいます。静岡から来たの」
 彼女はゆっくりとした口調で名乗った。でも語りが演歌歌手みたいで俺は思わず噴きだしそうになる。

『俺は横浜のキタノカズキだ』
「な〜んだ、意外と近いとこから来てたんですね。とにかくさっきはありがとうございました」
『いえ、いち旅人として、ちょっと看過できなかったものだから』
「でも、まさか初日からキタノさんの忠告通りになるなんて思わなかったわ」
『これが北海道ツーリングの負の一面なんだよ。旅先で女と見ると見境がなくなる連中も多いから気をつけないとね』
「肝に銘じます。ところで明日はやっぱり釧路ですか」
『ええ、和商市場まわってから湿原に行こうと思ってました』
「ふ〜ん。それも面白そうね」
 彼女は妙に得心顔で頷いていた。
『申しわけないが、俺はこの辺で休ませてもらうね』
 本当に眠い。早くシュラフに入りたい気分だった。すると彼女の声のトーンがずいぶん低くなり、
「テント、キタノさんの隣に移していい。なんだか怖いんです」
 ちょっと恥じらうような仕草を見せながらライダージャケットのファスナーを締めた。
『どうぞ』
 俺のイビキで寝れなくなっても責任はとれん。事実、テントの生地は薄い。当然、筒抜けだ。
「ありがとうございます。おやすみなさい」
 フェリーで初めて会った時と変わらない穏やかな声がした。

 どうやら彼女はテントを引きずってきてペグを打ちだしたようだ。前室の隙間から微かに見える彼女のテントはひどくアンバランスでしわくちゃな出来映えだった。雨漏り確率百パーセントだな。アドバイスしようかとも考えた。けど、説教くさいオヤジみたいに思われるのが非常に嫌だったので敢えてなにも言わなかった。
『おやすみ』
 彼女のテントの方へ独りごち、シュラフに入った。俺は、シュラフのなかで、珈琲酎のボトルからふた口ほど飲むと軽く酔って、すぐに眠りに落ちる。さっき叩きのめした連中からのおかど違いの意趣返しもなかった。

 ぬるい空気の悶々として寝苦しい夜が明ける。寝汗をかいてベトベトになったTシャツを脱いで新しいのに着替えた。しかし暑い。北の大地の朝は夏でもしっかりと湿気が多く正しく冷えないといけないと思う。

 何かが狂った199]年の北の大地の夏だった。熱気が朝から充満している。たまらずテントから飛び出した。そして飯を炊く。おかずは納豆オンリーだ。俺は日本の朝はこれだと確信している。とにかく喰わないと間違いなく夏バテするだろう。もりもりと朝食を平らげ、テントを撤収し終えた頃・・・
 ミドリが起き出してきた。
「おはようございます」
『おはよう』
 昨夜、あんな事件に遭い、彼女は眠りにつけたのだろうか。本当に災難だったと思う。
「ずいぶん早いんですね。わたしは朝が弱くて」
 長い髪をかき上げながら近づいてきのだが、寝起きのその白いうなじはあまりにも魅惑的であった。
「顔を洗って来るまで待っててね」
 洗面道具を持って炊事棟へ慌てて向かった。

 暫し待つとすっきりとしたミドリが、
「釧路へ行くんでしょう。もしよかったら、わたしも一緒に行っていい?」
 やや遠慮がちな表情で呟く。
『いや、だめだ。俺はひとり旅を楽しみに来てるんだ』
 冷たい言い方だったかもしれない。けど今の俺はただひとりになりたかった。旅の用心棒はご免だし、なんの下心もない。
「いいの、ちょっと言ってみただけです。気にしないで」
 ミドリは、一瞬寂しげな横顔を見せたが、すぐに元の表情へ戻った。
「昨夜は本当にありがとう。カズキさん」
『アバウトだ』
 俺はマシンのアクセルあげ、やがて彼女の目線からは点になったと思う。

 黄金道路へ突入。

 以前、黄金道路を逆方面から通過した時は悪天候で波が道までかかり、悪戦苦闘のルートだった。でも今回はお日柄がよい。波も穏やかで天気も暑過ぎる。このルートをとるとき必ず休憩を入れるポイント、フンベ(アイヌ語で鯨)の滝付近で一服した。俺は空に向かって大きく煙を吐いた。一片の雲もない青空に白い煙が消えていく。暑い時の煙草は実に美味い。俺の心の中のもやもやも煙と一緒に消えてもらいたいものだと携帯灰皿に火を落としながら独りごちる。

 熱気が釧路全体を覆っていた。やがて街の中心部へ到達する。さすがに都市部だ。渋滞をかわすように走り、ようやく和商市場へ到着する。

 なんだこりゃ。魚卵系が大好きな俺は狂喜した。弁当屋でご飯だけを購入し、好きなネタのみを食べ切りサイズでトッピングしていく。ウニ、イクラ、トビッコ。さらにトロ、ナマダコ、ナマエビなど。自分で造る海鮮丼。つまり勝手丼というやつだ。素晴らしい。もともと金のないライダーを不憫に思った店主が始めたサービスらしい。今では釧路観光の風物詩となるくらい有名なポイントとなってしまったようだ。

 満足して釧路湿原へ向かった。ギラギラとした真夏の陽射しが容赦なく俺の体へ照りつけ、どんどん体力を奪っていく。俺は負けじとアクセルを握り続けると細岡展望台へと到着した。釧路湿原のなかでも最も有名な展望台だろう。広大な湿原のなかを何本もの川が蛇行して流れる景観にすっかり見入ってしまい、暫し言葉を失った。ここも来てよかった。

 昆布森、厚岸という集落をエンジン快調に突っ走る。相変わらず気温は高いが北海道ツーリングらしいとても爽快な気分になってきた。涙岬という観光ポイントへ入ったが人気がない。ひとりトボトボと歩いた。暫くすると伝説の女性の顔の岸壁が眼前に出現する。アイヌ民族の言い伝えで、ニシン漁が華やかな頃、厚岸の若者と霧多布の網元の娘が恋に落ちたそうだ。ある嵐の日、厚岸から船で霧多布へ向かうときにここまできて座礁し、若者は海の底へ消えてしまった。それを知った娘は、この断崖に立ち泣きながら声を限りに若者の名を呼び続けたという。波を浴び、あたかも涙を流しているような娘の横顔が映る岸壁へ静かに手を合わせ立ち去った。

 やがて北太平洋シーサイドラインへ突入する。民家もなくなり原野と海だけがあいまう荒涼とした圧倒的な眺望が広がった。まさに北海道屈指の絶景ラインである。なんて快走するうちにやや高台に位置する展望台、「琵琶瀬展望台」が見えてくる。広大な湿原を蛇行する琵琶瀬川は、もしかしたら釧路湿原を凌駕する絵柄かも知れない。また売店で売られている生牡蠣もなかなか美味だった。おばさんから、牡蠣の佃煮も土産にどうだといわれたが、それは丁重に辞退する。

 そろそろ陽も傾いてきた。今夜の野営地を探さないと。ここから一番近いキャンプ場は「きりたっぷ岬キャンプ場」か。

 途中、セイコマで買出しを済ませ外に出ると、
「霧が酷くて、今夜の天気は荒れ模様になりそうよ。キャンプよりも無理せず宿をとった方が無難でしょう」
 年輩のご夫婦ライダーから声をかけられた。
『そうですか。ご助言ありがとうございます』
 と、とりあえず礼をいう。

 けど、旅系の俺が、この程度の天気でキャンプを断念するつもりなど毛頭なかった。とにかく前に進もう。暫くマシンを走らせて辿り着いたきりたっぷ岬は、漢字で霧多布と書くだけあって、非常に霧が濃かった。構わずマシンを奥へ進ませると芝の綺麗な岬の上のキャンプ場が見えてくる。ありがたくも無料だ。受付を済ませ、ビールを飲みながらテントを張った。風が強いと評判のキャンプ場なので張り綱も念入りに固定した。

 ご飯を炊き、相変わらず粗末な夕食を腹に流し込む。そして酒の時刻だ。珈琲酎をグイグイ煽る頃になると俺も上機嫌になる。HBCラジオのトーク番組もおもしろい。霧が出ているせいか暑さも一息つき過ごし易い夜だった。でも悪酔いする前に寝よう。

 と思うのだが・・・

 トイレの近くにテントを張った俺が浅はかであった。バシッとテントの張り綱へ足をひっかけて行く人が実に多い。まあ、気にせずに寝ようと思っていると本当に熟睡してしまう。

「きゃあー」
 今夜もかよ。悲鳴がした刹那、テントの上から俺の体へ倒れこんできた人がいる。苦しくて窒息しそうだ。
「すいません。張り綱で転んじゃいました」
 申しわけなさそうな女性の声だった。
『それはいいけど怪我はないですか』
 いきなり叩き起こされ、内心はムッとしていた。それより、よくテントのポールが折れなかったもんだ。
「わたしは大丈夫です」
『本当かい?』
 俺はテントの外へ顔を出した。
『あれ?ミドリさん?ミドリだよなあ?今夜は流れ星みたいに空から降って来たのかい?』
 
 まさに真夏の夜の夢である。



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