梅雨明け間近のとある休日、なぜかきっぱりと晴天になった。

 エプロン姿の妻はここぞとばかりに一斉に洗濯ものを干しだした。
「あなたのテントもついでに干しとくね」
『いいよ。自分のテントは自分でやるから』
「あなたがやるより、わたしが干した方が絶対に早いって」
 言い終わる間もなく、収納庫から俺の愛用のツーリングテントを取り出して、瞬時に組み立て、わざと倒した状態にし、天日干しにした。時間にしてたった数分である。

 相変わらず見事な腕だ。

「どうせ今年も行くのでしょう。北の恋人に会いに」
 俺は思わず噴きだしてしまった。



 199]年夏・・・・・

 仙台発のフェリーは少しずつ苫小牧港へと近づいていた。俺はデッキから容赦なく降りそそぐ真夏の陽光を浴びながら有珠山の山なみを眺めていた。1年ぶりの北の大地なのになんの覇気も湧いてこない本当に冴えない若造だった。もう何度目の北海道ツーリングだろう。

「ホント暑いわねえ」
 ドキッとして俺は振り向いた。

 笑顔がよく似合う穏やかそうな人だった。彼女は学生なのだろうか。いや、落ち着いた口ぶりからOLのような匂いがした。真っ赤な生地に黒のストライプの入ったメッシュのジャケット、オートバイの旅に来ていることは間違いない。

「どのくらいまわるんですか」
 彼女も俺のこともライダーだと察知していた。
『ざっと2週間です』
「楽しい旅になるといいですね」
『お互いにね。女のひとり旅はなにかと大変だと思いますが、上手に楽しんでください』
「ありがとうございます。あなたも事故とか注意されてください」
『了解しました』
「ところで、お泊まりはライダーハウス?ユースホステル?」
『どっちも苦手かな。いや、というよりキャンプ旅のスタイルが、とても好きなんです。全部キャンプにしてみるつもりです』
「へえ〜、いろいろあるんだ。実はわたし、初めてのテント持参の旅なんですよ。あっ、そろそろ下船ですね。なんだか緊張してきたわ。じゃあ失礼します」
 にっこりと微笑みながら踵を返した。彼女は当節人気の女優、斉藤由貴にちょっと似ているかなと思った。

 そして、穏やかな後姿を見ていると、なんとなくお天気に恵まれた旅になりそうな予感がした。実は昨年、いや一昨年も天気は雨ばかりで、散々な目に遭ったのだが、その反動のせいか、この夏の北海道は記録的な猛暑が続いているらしい。

”お車およびオートバイでご乗船のお客様にお知らせいたします。当船は間もなく苫小牧港へ接岸いたします。各デッキの方へご移動ください”

 下船の案内放送が流れた。山行用のザックを背負いマシンのあるEデッキへと降りる。しかし蒸し暑い。また接岸するまでエンジンをかけるなという指示があるにもかかわらず既にセルをまわしているやつもいて、胸が悪くなるような酷く煙たい空気が漂っていた。暫し待つと、排気ガスだらけの船内からようやく開放された。

 上陸後、深呼吸して駐車場へ向かった。気温は軽く30度は突破している。沖縄より暑い北の大地か。とにかく根本的に荷物をばらしてパッキングをしていると一台のドラッグスターが近づいてきた。女性だ。そしてヘルメットを脱ぎ話しかけてきた。
「さっきはどうも」
『ああ、デッキで』
 斉藤由貴似の彼女か。
「これからどちらへ」
『とりあえず釧路方面へ海沿いを走ろうかと思っています』
 俺は額から滴り落ちる汗を、首にまわしたバンダナで拭った。
「偶然ね。わたしも知床を目指してるから、おんなじですよ。どこかのキャンプ場で、またお会いしたらよろしくお願いしますね」
『ええ、こちらこそ』
 多分、もう会うこともないだろう。しかし、こんな俺だけど、当時はごく普通の青年だった。穏やかに澄んだ瞳のどこかに軽い、いや、不思議なトキメキのようなものを感じていた。

 彼女は、カッコよく長い髪をなびかせながらドラスタと共に去って行く。俺は、そんな姿を汗を拭いながらまぶしそうに眺め、せっせとパッキングを仕上げた。

 俺も行くか。マシンのセルを鋭く鳴らした。一発で作動する。そして原野の中を突っ切る無料の高速道「日高道」を暑すぎると独りごちながら走った。灼熱のアスファルトの上にはゆらゆらと陽炎が浮いている。たまりかねた俺は鵡川のドライブインで小休止した。そして自販機の缶コーラをほとんど一気に飲み干したが、それでも渇きが癒されない異様な暑さだ。

 とにかく、じっと我慢して襟裳岬へ向かう。道路脇に干してある昆布の匂いがとても濃いが、不快ではない。むしろ北海道らしくていい。海も穏やかに凪いでいる。天気予報なんて嘘っぱちだ。雨の確率90%の予報とは裏腹の一片の雲もない素晴らしい好天だった。

 襟裳岬に到着。美しい半島の稜線が実によく見渡せた。こんなに綺麗な眺望の襟裳岬を初めてみた。レストハウスのツブ丼はかなり外れたけど来てよかったとつくづく思った。

 陽が傾いてきた。そろそろ今夜の幕営ポイントを探すか。ツーリングマップルを広げると「百人浜オートキャンプ場」が近い。しかし、ここのキャンプ場って思いっきりミステリーポイントだという噂があった。まあいい。以前のキャンプ場の位置から、かなり内陸部に移転したようだし、俺にあまり霊感はない。自分に言い聞かせるように百人浜オートキャンプ場へ入る。しかし綺麗な芝が広がる見事なキャンプ場だ。低料金だし、意外に穴場かも知れない。

 受付を済ませ、ビールを飲みながらテキパキとテントを立てた。そして夕食の準備。バーナーへ火を入れ、クッカーで飯を炊いた。やがて炊きあがったほかほかご飯を缶詰をおかずに食べた。実に粗末な夕食だが、これでいい。このスタイルだけで充分だ。空を見上げると満天の星。バックからお気に入りの珈琲酎を取り出して、ゆっくり飲んだ。まったりと時が過ぎてゆく。こういうキャンプをするために無理して休みを取って北海道ツーリングへ来たんだ。

 ただし、20代後半の俺もいつまでこんな旅が続けられるか。また、いつまで独身生活を謳歌できるのかとふと考えてしまうが、今はそんなことは忘れよう。実は俺の日常では嫌なことばかり突発していた。俺は深い心の傷を負っていた。思い出したくもない出来事。今の俺は純粋に北の旅を楽しむことしか活路は見出せないような気がする。

 ほどよい時間、睡魔に襲われシュラフに入り眠りに落ちた頃・・・

「いやです!」
 キャンプ場内へ女性の大きな声が轟く。

 俺はかなりギョッとして目覚めてしまった。いわくつきのキャンプ場だ。もしやと思い冷や汗をかいていた。
「おひとり?一緒に飲もうよ」
「いえ、わたしはもう本当に休みますから」
「そんなこといわないでね、ねっ」
 どうやらひとり旅の女性が酔っ払いのキャンパー数名にからまれているようだった。

 どうしたものか?関わりたくないが、こっちもいつまでも寝れなくなってしまう。意を決し、
『あ、あの、もう遅いし、その人も嫌がっているようなのでやめませんか』
 俺は無造作にジッパーを開け、外に出た。他のテントの人たちも息を殺して事態の推移を窺っているような気がした。
「誰だよ。おめえに関係ねえだろう」
 男は3人いた。相当酔っての狼藉のようだ。
『明日、早い人も多いようなので今夜はこのあたりで』
 俺は努めて連中を刺激しないようにとりあえず下手にでる。
「うるせえっていうんだよ、このバカ」
 連中のひとりが猛然と殴りかかってくる。しかし、ど素人のパンチだが相手は3人だ。油断はできない。俺は軽く左へ状態をスウェーさせながら強烈な足払いをくらわせると男はもんどりうって倒れた。

 その刹那、いつの間にか背後にまわった別の男がサバイバルナイフで斬りつけてきた。”考えるな、感じろ”。右足を旋回させ脾腹に後ろ廻し蹴りが絶妙なタイミングで決まった。

「うっ」
 男はマンボウ奏者のような不思議な声をあげ、崩れ落ちるように悶絶してしまった。

 交差法(究極のカウンター攻撃のような型)だ・・・

 つまり俺は周囲には見えない「制空権」を張りめぐらせ、そこへ半歩でも侵入すれば百発百中なにがなんでも撃墜してしまう体勢をとっていたのだ。防御即反撃である。俺は微動だにせず「残心の構え」をしていた。息の乱れもまったくない。まだ俺の腕は衰えてなかったようだ。

 あとひとり・・・

 最後に残った男はかなり狼狽した無様な口ぶりで、
「す、すみませんでした。いやなに、ちょっと酔ってふざけていただけなんですよ。もうすぐ寝ますから」
 うずくまっているふたりを抱え起こし、引きずるように暗闇の中へと消えていった。

 旅先で一番怖いものは、熊でも幽霊でもない。実は人間なのだ。彼女はポカンとした放心状態で、俺の姿を見つめていた。ほんの1分にも満たない急転直下の展開へ頭が追いついてこないらしい。

 暫しの静寂が過ぎ・・・

「ありがとうございました。でも凄い気迫でしたね。あの人たちかなり怯えてましたよ。なにかを超えたとてつもないパワーに一瞬だけあたり一面が覆われたような気がして、わたしまで背筋が凍ったわ」
『いや、たいしたものじゃない。ケンカなんてなんの自慢にもならん。それより大丈夫でしたか?』
「だ、大丈夫ですが、奇跡を見ました」
『奇跡?大仰なことだ』
「ところで、もしかしたら?フェリーでお会いした方ですよね?」
 彼女はとても驚いたようだ。

 もちろん俺も仰天したけど。




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