『けどな、偉そうに言ってる俺も十数年前までは何にもひとりでできなかった』
 マグカップの酒を一気に飲み干したキタノさんは呟いたの。

 えっ、そんなの嘘よ。こんなに凝ったキャンプ道具をたくさん持って、炭火を自在に操っている男の姿からは絶対に想像できないわ。どう見てもキャンプファイヤーの煙の中から生まれてきたような男じゃないの。

『数限りない失敗の連続だった。そして体を張ってキャンプツーリング術を身につけた。もっとも今でも失敗ばかりなんだが、それも楽しんでいるよ』
 ランタンの灯に照らされた彼の顔は穏やかに笑っていた。

『知床岬までテントを担いで2泊3日歩いたときも確信したね。最後に信じられるのは自分自身の体力と技術だけだと。人間切羽詰るとぞんがい何でもできるもんだよ』

 知床岬って世界遺産の?その時のわたしにはちょっと想像がつかなかったけど人跡未踏の凄い難関みたい。ツーリングばかりじゃなく山登りみたいなこともしてるんだ。そっか、だからライダーなのに登山靴なのね。

 グルル・・・

『なんだ?また腹がへってきたのか?』
 彼は大笑いしていた。なんでこんな時にわたしのお腹が鳴るの?しかもキタノさんにバレるぐらい大きな音で。わたしは恥ずかしくてカエルのように身を縮めてしまったわ。

『肉はこれで終わりだ。米もあいにく切らしちまったな』
「あ、あのう、お米とクッカーならあります。ただ、つい面倒でいつもコンビニのお弁当とかで食事を済ませていました」
 本当はクッカーの使い方も知らなかったの。
『じゃあ、ご飯にするか?』
「炊き方を・・・教えていただけるなら・・・」
『おう、俺のやり方でいいなら、喜んで教えるよ』
 彼は、まったく意にも介さぬ様子だったけど、やっぱりわたしは恥ずかしかったわ。

『いいか、クッカーに米と水を入れ、手で米を研ぐ(まわすだけ)。まめに水を入れ替えながら1合や2合程度なら100回も手をまわせばOKだ。1合の米と水の配分は1:1.2だ。経験上、それが一番上手くいく。あとは最低30分ぐらい水につけておくと仕上がりがいい。これで第一段階終了』
 彼は煙草に火をつけラジオのスイッチを入れたけど、なぜかロシア語の放送ばかりなの。やがて、コサックダンスの曲が鮮烈に流れ出した。どうしても騎馬隊の曲が、キタノ氏の印象にリンクしてしまうのはなぜ(笑)

「意外に簡単そうなんですね」
 わたしは目からうろこが落ちたような気がしたわ。

 30分ぐらい過ぎた頃・・・

『マッキー、ボーってしてないでよく見てろ。このままバーナーで弱火の中火で炊くだけだ。水蒸気が出て水気が完全に抜けるまで炊くんだ』
 なんだか、さっきまでのキタノ氏と別人になっている。水を得たお魚みたいだわ。

 やがて水気が抜けてきた。

『こっからが肝心だぞ。米が焦げるか焦げないか微妙な匂いがしたら火を止める』
「そんな微妙な匂いなんてわかんないわよ」
 わたしは、彼のひじょーに抽象的な表現にイライラしてきたわ。
『いいから、煙の匂いを嗅げ』
 彼はニヤニヤしながら指示した。

『いまだ!火を切れ』
 わたしは、びっくりしながらバーナーの火を止めたの。

『どうだ。匂いのタイミングが分かったか』
「分かるワケないじゃない。そんな微妙な匂い」
 ついツッケンドンな言い方をしちゃった。
『水蒸気が消えてから集中して匂いを嗅いでいれば必ず分かる。そしてアバウト15分、蓋を開けずに蒸らす』
「そんなに簡単にクッカー炊きができるの?」
『俺はクッカー炊きの神様だ。一度も失敗したことがない。まあ、待ってろ』
 キタノ氏は、今度はウイスキーを取り出し、悠々と飲んでいたわ。そんなに飲んで大丈夫なのかしら?

『そろそろかな。マッキー、蓋を開けてみなよ』
 わたしは、クッカーの蓋を恐る恐る開けてみたの。

 すると・・・

「すごーい、カニの穴まで開いている」
 奇跡だわ。まるで魔法を見たみたい?
「美味しそう。これならわたしひとりだって絶対に出来そう」
 思わず歓声をあげてしまったわ。

「うん、美味しい」
 わたしは、キタノさんの缶詰をおかずにご飯をガンガン食べてしまったわ。
『ほかほかご飯のおかずは豪華じゃなくてもいい。なんにでも最高に合うんだよ』
「本当ですね。こんなに美味しいご飯初めてです」
『野外というシチュエーションが最大の調味料になるし、なによりマッキーが自分自身で炊いた飯だから美味しいってこった』
 キタノさんは、例の満面の笑みを浮かべていた。

「これだけ教われば炊き込みご飯とかいろいろ応用が効きますね」
 とっさにそう思ったの。
『たいへんよろしい』
 教えた方にも教え甲斐がある。後は俺から学んだ基本的なことをどんどん応用してくれ。旅人は創意工夫が真髄だというのが俺の持論だとキタノさんは大喜びしてたわ。

「ご馳走様でした。そろそろ休みます」
 わたしが自分のテントに戻ろうとしたとき・・・

『ちょっと待った』

 キャッ!

 なに?もしかしてお礼に伽でもしろとか。一瞬、固まってしまったわ。いくらなんでも今日会ったばかりの人と・・・

 キタノさんて、いかにもタフで激しそうな野性的な男だし。

 けど、嫁入り前の娘には、まだ心の準備が・・・

 キャッ!

『クッカーに水を入れとけ。そして明日の朝、湖畔の砂でクッカーを洗うとこびりついた取れ難い米がきれいに落ちる』
 この人は、野営に関わることしか頭にないみたい。

 ホッ・・・

 ヨッパでも女には意外にきちんとされた方なのね。ちょっぴり肩透かしされた気分だわ。ウフフ・・・

「ありがとうございます。そうします」
 仰せの通りにしてからテントのジッパーを閉めた。

 なんだか自信がついてきた。そして憑き物が落ちたような妙にすがすがしい気分がしたの。

 心地よい酔いと満腹感で、ぐっすりと眠ることができたわ。




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