禁じ手の”蟹挟”をくらったサガワは、左膝の靭帯を痛めたらしい。あまりの苦痛から、顔面蒼白、脂汗が噴き出していた。判定は対戦相手に警告(技あり扱い)が宣告された。今なら、一発で反則負けになるが、当時は山下・遠藤の試合からまだ3ヶ月ぐらいしか経過していない。禁じ手には違いないがルール上の規定が徹底されてなかった。

「サガワ、試合の続行は無理だ。棄権しろよ」
 ヨシバは、サガワの左膝にコールドスプレーを吹きかけていた。

『ひょろマツ、チューブをもってこい』
 サガワは苦痛に耐えながら、左膝にグルグルとチューブを巻きつける。

「まさか先輩、このまま試合を続けるんじゃないでしょうね」
 タヌキが、話しかけてきたが、ゲンコツをぶちかました。
『バカモノ、これで終われるか!』
 サガワは脳天まで突きあがるような激痛にさいなまれながらも不敵に笑っていた。
『たとえ、反則でも鬼より怖いサガワの膝をぼろぼろにした選手に対して棄権などしたら失礼だろう。たっぷりと利子をつけて返したるよ』

 試合再開・・・

 サガワの顔は、まだ不気味な微笑を浮かべていたが、軸足を痛めている以上、払い腰をかけるのは不可能。

「こんな時のサガワ先輩は、なにをしでかすかわからない。むしろ、対戦相手の方が心配になるよ」
 タヌキはひとりごちていた。

 対戦相手はサガワの痛めた左膝めがけて、容赦なく足払いを仕掛けてくる。気絶しそうな痛みをこらえていたサガワは、相手の後帯を取り、わきをすくって腕をかかえ、密着したまま後転し、巧みに寝技に引き込んだ。

 引き込み返し・・・

 おお〜

 観衆がどよめく。

 さらに後方から、片足で締めながら関節を決めるという至難の高等技で押さえ込んだ。究極の寝技”三角締め”というやつだ。こんな秘技をいつの間に身につけていたのだろう?グランドテクニシャン・サガワの強烈な締めに対戦相手はたちどころに失神してしまった。

”1本!それまで”

 12人斬り達成・・・

 ラベルが違う。

 いっ、いや、レベルが違い過ぎる。

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 余談・・・

 ブログへ自分の私的な日常をあまり書きたくないんで、サガワさんの過去の実話かフィクションなんだか曖昧な四半世紀以上前の夜話を書き綴るぐらいが、丁度よいかもしれない。ただ、返すがえすバブル前の昭和の後半って印象深い良き時代だったと思うなり。

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 とっつぁん・・・

 一応、高校の柔道部なのだから、顧問の先生、つまり監督は存在していた。顧問のマユズミジュンタロウ先生のあだ名が通称”とっつぁん”である。教科は社会。とっつぁんは、定年まであと2年を残すばかりの無口で小柄な老人だが、背筋正しくグレーの三揃いの背広が実によく似合う穏やかな紳士だ。蔭が薄過ぎて、このストーリーにはまったく登場していない。

 太平洋戦争末期、学徒出陣で陸軍に召集され、南方の島で屍山血河の中を生きのびた経歴があるが、本人は決してそのことについて語ろうとはしない。また講道館柔道六段の達人だと噂されるが、特に稽古に口出しすることもなく、柔道場の片隅で静かに練習を傍観し、いつの間にか消えている。そんな存在だった。

『俺は次の試合も続行するぞ』
「無理だ。棄権しろ」

 サガワと同じ2年のアリノ・ヨシバ・タニは激論を交わしていた。

 そこへ、とっつぁんが珍しく口を挟む。

「サガワ、いい加減に我がままはやめろ。このまま試合を続けたら、おまえの左足は、一生使い物にならなくなるぞ」

 陸軍士官ばりの有無を言わせぬ強い口調で一喝される。普段、とても温厚な紳士であるとっつぁんの意外な迫力にサガワは沈黙してしまった。つまり、ここでサガワは無念の棄権。連勝記録は12でストップする。

 ちなみにF高は中堅から大将まで重量級陣で固めていた。試合が再開し、次鋒のキツネは鮮やかな内股であっという間に1本負け。中堅のアリノは、押しまくられながらも奮闘し引き分け。副将のタニも粘りに粘ったが、試合終了直前に有効をとられ敗退。大将のヨシバは、相手の副将を伝家の宝刀”小内刈”で技ありのポイントをとり、そのまま逃げ切ったかのように見えた・・・

 大将戦・・・

 さすがの小兵の魔術師ヨシバも2人連続重量級相手では体力の限界に達してしまい押し潰される。そして袈裟固めで1本をとられた。

 これで団体戦敗退。

 結局F高は、5人抜きをされる屈辱から逃れるためにあえて禁じ手を使ってまで、サガワの連勝を封じたかったという黒い噂が立ったが、真相は今も杳として不明である。
「せっかく、おまえが頑張ったのに守りきれなくて悪かったな」
 ヨシバはサガワの肩へ手をやった。

『いや、団体戦はもともと5人でやるもんだ。俺も調子に乗り過ぎたよ』

 サガワの左膝靭帯損傷は、格闘家としての宿亜となり、その傷を生涯引きずることになろうとは、この時は知るよしもない。

 靭帯損傷のダメージで、サガワは通院加療を続けていた。もちろん稽古もひと月は無理と診断される。やむなく柔道場の片隅で腕立てやベンチプレスなど、ひとりで黙々とトレーニングを続けていた。そんなある晩、久しぶりに顧問のとっつぁんが上座で、稽古後の訓話をし始めた。もちろん部員は全員青畳の上できちんと正座をして拝聴している。

「戦争中の話はしたくはないのだが、諸君の日々の真面目な稽古ぶりを見ていささか思うところがあり、少し語っておこう」

 昭和20年、大学を繰上げ卒業し、陸軍に召集されていたマユズミはガダルカナル近くの孤島で、風前の灯火のような様相で取り残されていた。マユズミ小隊の部下は30数名であった。守備隊全部ではまだ数百人が生き残っており交戦は続いていた。だが、圧倒的な火力で上陸した敵は既に主要な高台を占拠し、重厚な陣地を構築し終えてしまっている。

 そこへ島の守備隊長である中佐殿が、生き残りの全部隊で万歳突撃を深夜に仕掛けるという。
「周囲はなんの遮蔽物もない広大なビーチです。いくら闇夜の中の作戦とはいえ、丘の上の陣地へ突撃すればたちまち十字砲火に遭い部隊は全滅してしまいます。こんな愚かな作戦はお止めください」
 マユズミ少尉は、中佐殿へ必死で意見具申した。
「少尉、貴様はよほど死ぬのが怖いらしいな。この学徒のニワカ将校めが」
 中佐は皮肉めいた口振りで、マユズミを罵倒する。
「いえ、このような短絡的な作戦で部下、いや、あたら若者たちを死なせたくはありません」
「黙れ、卑怯者!帝国陸軍の伝統はな、弾が尽きれば銃剣突撃で決をとるのみだ」
 マユズミ少尉の意見具申は無視された。

 そして数時間後、夜陰に乗じて全軍で突撃を敢行した。やがて、頭上に爆裂音がこだましたかと思うと突撃隊は、たちまち敵に察知される。照明弾だ。周囲が真昼のように明るくなった。動く者は猛烈な機銃掃射を受ける。目の前で小隊の兵士がバタバタと倒されていく。東北の愚直な農家や商家の倅、町場の工場で働く勤労青年たちは、根こそぎ動員により想像もつかないような遥か彼方の南方の島にまで連れてこられたのだ。皆、善良で心根の優しい若者ばかりであった。

「しっかりしろ」
「小隊長殿、自分は死ぬんですね。とても痛えがらす。おら、まだ死にだぐねえだ」
 かわいい部下たちがマユズミの腕の中で次々に息耐えていく。小隊は、マユズミ以外全員戦死。マユズミ少尉はとてもじゃないが耐え難い傷を心に深く負った。

 結局、左大腿部に被弾したマユズミは意識を失い、そのまま敵の捕虜になり死に損ねてしまった。失意の中、悶々とした日々を収容所で過ごしていると、あれだけ多くの若者たちを死なせた中佐殿が笑顔で取り巻きと歓談しているではないか。どうやら彼は後方であっさりと降伏したらしい。いつの時代にもこういう汚い男はいるものだ。

「おのれ〜、私の大切な部下の命を返せ!」
 激しい憤りが込みあげてきた。足を傷はまだ癒えてはいないが、中佐につかみかかって強烈な背負いで投げ飛ばしてしまった。

「もうずいぶん昔の話なのだが、熱心に稽古に励む諸君の姿を見ていると失った多くの若い部下たちの姿がオーバーラップしてしまうのだよ。戦争は悲惨だよ。競うのなら武道、いやスポーツの場で大いに戦ってもらいたい」

 訓話が終わったとき、なんとなく、とっつぁんの目がうるりと光っていたような気がした。

 翌日、驚天動地の事実を知る。とっつぁんが昨夜未明に脳梗塞で急逝したという。
「柔道部の連中は素直な生徒ばかりで可愛いくてならない。あまりの偶然に驚いているのだが、戦争中お世話になった、いや私の命の恩人である上官のお孫さんもおられるのだ。本当に爺様にそっくりな真っ直ぐな気性の若者だよ。どうやら中尉殿との約束は果たせたようだ」
 昨夜も晩酌をしながら奥様相手に長々と語り、上機嫌で就寝した。

 深夜、異様なイビキで起こそうとしてもまったく目覚めない夫へ異常を感じた奥様が、救急車を呼び病院に搬送させたが、そのまま還らぬ人となる。

 部員全員がとてつもないショックを受けたが、葬儀での駐車場係、その他、一切の雑用係を引き受け奔走した。棺の中のとっつぁんに部員全員が最後のお別れを済ます。誰もが涙を流していた。お洒落なとっつぁんは、いつものグレーの三揃いの背広を着こなし、穏やかに微笑んでいる。

 マユズミ少尉は、これから35年前の懐かしい部下たちに久々に会いにいくのだろうか?長い歳月をひたすら悔恨の念にかられていたとっつぁんも、これでようやく楽になれるのだろうか?
『柔道部員全員整列』
「押忍!」
 霊柩車が火葬場へ向かうクラクションをあげた時、サガワは部員へ集合をかけた。
『これより、とっつぁん、いやお世話になったマユズミ先生へエールを贈る』

”サース”

 奥様は何度も何度も”ありがとう”といいながら涙をこぼしていた。

 サースの意味は目上の人間にしか決して言わない、最大級の尊敬の念をこめた別れの挨拶なのだ。押忍が”オハヨウゴザイマス”の略であり、サースは”サヨナラデス”の意である。

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 1945年8月某日

 万歳突撃で被弾したマユズミ少尉は息を吹き返した。もうどのぐらい時間が経ったのだろう。

 ふと声がした。
『しっかりしろ』
 中尉の階級章をつけた士官が傷を負った兵隊を背負って歩いてきた。

「中尉殿は、大丈夫でありますか」
『ああ、なんとかな。そういう貴様はあまり大丈夫ではなさそうだが?』
「白虎連隊マユズミ少尉です。足をやられました。自分の小隊は全滅です」
『そうか。俺はサガワ中尉だ。子供はもう2人いる。この作戦は絶対に二百三高地よりも悲惨だと思ったよ。同じ連隊だが、うちの小隊も俺と背中のひょろマツ、いや、マツイ二等兵以外は、あっという間に十字砲火で壊滅されちまった。いい若いもんばっかりだったのによう、ひでえ、負けいくさだな』
 サガワ中尉は、どっからでもかかってこいというような精悍な面構えで、周囲を見渡している。とても赤紙召集とは思えない歴戦の兵隊の匂いが全身から滲み出ていた。

『戦利品だが吸うか?』
 彼はラッキーストライクへ火をつけ、美味そうに2,3口吸うとマユズミに手渡した。
「はっ、ありがたく頂戴いたします」
『うちの家系はよ、微禄ながらも会津藩士の末裔だ。曾爺さんは会津戦争で城を枕に討ち死にしてな、その息子の爺さんは戊辰の仇とばかりに西南戦争で警視庁抜刀隊に志願し、田原坂へ斬り込んで名誉の戦死だ。親父は日露戦争で応集、奉天会戦で重症を負い、やっとこさ内地に復員した。したっけ、今度は俺が大東亜戦争で召集だとよ。親類縁者を含めたら、幕末以来、一族の男子の7割ぐらいは負傷戦死してるんじゃないかい。まったく先祖代々なんの因果かねえ』
 サガワ中尉は、深く溜息をついた。

『貴様も招集か?』
「はい、学徒です」
 マユズミは受け取った煙草の煙を吐き出しながら答えた。

『貴様らのような学生までかり出されるのだから、俺が召集を拒むわけもいかんよな。でもよ、どう考えてもこの精神論だけの戦争は負けに決まってるぜ。日本とアメリカの工業力の差を知ってるか。1:100だ。しかも敵さんは無尽蔵に資源を持っている。資源のない貧乏な日本が戦える相手じゃないんだ。ちょっと考えればいかに無謀な戦争かはわかると思うのだが』
「中尉殿、そんなこと言って憲兵隊にバレたらまずくないですか」
『かまうもんか、もうすぐ戦争は終わるよ。ちなみに俺の本業は軍人じゃない。現役の中学(旧制)教師だ。マユズミよ、おまえは絶対に死ぬなよ。これからの日本のために。そうだ、内地に復員したらマユズミも教師になれ。大切な若者を殺すのではなく育てようぜ。繰上げ卒業でも立派な学士号だろう。なんかスポーツとか、やってるのか?』
「はあ、自分は柔道であります」
『そうか、将来、俺の息子、いや孫が出来たら柔の道というやつを仕込んでくれたまえ』

 さらに時間が過ぎるとたくさんの兵隊の足音が聞こえた。
「ホールド・アップ。抵抗するな」
 敵の掃討戦か?
「サガワ先生、どうか自分を銃剣で突き殺してください」
 マユズミは懇願したが、サガワは答えなかった。

『もう、我々には弾薬もなにもない。私はサガワ中尉だ。ここに傷を負って動けない自分の部下が2名いる。彼らだけでも助けてやってくれないか』
 サガワは流暢な英語で敵に語りかけた。
「オーケー、アンダスタン。サガワ、諸君らは勇敢に戦った。ほとんどの将兵は投降した。いや日本軍自体が数日前に無条件降伏しているぞ。もう無駄に命を落とす必要はない」
『それは本当なのか』
「オブコース、8月15日で既に戦争は終わっていたのだ」
 夕陽を浴びたサガワはただ呆然と立ちつくしていた。

 マユズミは復員後、ためらわず教職の道を選んだ。



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