とっつぁんを失ったダメージは大きかった。でも前にも増して誰もが稽古に熱心に取り組む。それが、とっつぁんへの一番の供養になると部員たちは信じて疑わなかった。

『飯でも喰いにいくか』
 サガワは、とある土曜の午後、1年生7人を黒珈琲近くの食堂”キッチン・ドン”へ連れていく。
『この店はな、丼飯がお替り可能なんだぞ』
「マジですか?」
『おう、本当だ』
 店に入り、全員が日替わり定食をオーダーする。出てきた料理とご飯を凄い勢いで食べ始め、皆、3杯目、4杯目と丼のお替りをし始めた。
『あ、あのな、この店はお替り可能だけどお替り自由ではないんだよ。良識的範囲でな・・・』
 サガワはたしなめたが、あの食の細かったサルやタヌキまで丼5杯目に突入していた。日頃、丼3杯以上は喰えと推奨しているサガワ部長はあまり強く注意できなかった。オーナーは、かなりムッとしている様子だし。

「ご馳走様でした」
 1年全員が外に出た後、サガワは会計を済まそうとレジに向かう。もちろん追加料金を払うつもりだ。
「きみが責任者かね?なに部なの?」
 オーナーに問われる。やはり不機嫌そう。
『はい、柔道部です。すいませんでした』
 そして、代金を手渡した。
「先輩が全員の支払いを済ませたら大変だよ。これお釣り。いや、学割だ」
 千円札が2枚も返ってきた。
『い、いや、これではあまりにも』
「若いのに気にするなよ。学生服の襟章を見るとぼくの後輩だね。腹が減ったらいつでもおいで」
 オーナーは、浮世離れした満面の笑みを浮かべていた。キッチン・ドンは多くの常連に支持され、今も実在している。

 1980年も暮れになってきた。

 この頃のサガワの日常は、早朝5時起床。5時半から新聞配達開始。特に実家が経済的に困っていたわけではない。むしろ裕福な環境だったかもしれない。でも学費は出してやるが、それ以外の出費は自分で稼げという父親の方針で高校入学と同時にバイトを始めた。

 7時半、自転車で最寄の駅まで向かい電車に乗る。そして市内中心部の駅から徒歩で登校していた。学生服の襟ホックまできっちりと締め、いつもひとりでいかめしい顔つきをしながら足早に歩いていた。

 8時時半に教室に入り、退屈な授業が始まる。教室ではひどく無口な男だった。どちらかというと理数系が苦手であるが、社会科、特に日本史の成績は抜群だった。また歴史関係の文献や小説を読むのが大好きで、昼休みなど暇があれば図書室で本を読んでいる意外な一面もある。司書のおねえさんが若くて可愛いらしかったから入り浸っていたという噂もあった?

 放課後は、部活で猛烈な稽古をし、毎日、ふらふらになって帰宅する日々が続いていた。喉が渇いても練習中は水を飲んではならないという迷信はなんだったのだろう?今なら熱中症になって倒れる部員がバタバタ出ると思うのだが、なぜか誰もが平然と稽古をしていた。現代の若者と人種が違うのか?

 信じられないぐらい大量の餌(晩飯)を食べ、まるでゴリラのようにすぐに寝入ってしまう。つまり、普段、家庭学習というものをまったくしてなかった。試験の一週間前からまとめて頭に詰め込む方式の勉強をし、そして、それなりの成績を収めていたような気がする。酒も煙草も無縁、無遅刻無欠席の皆勤賞で教師の側から見れば、まあ、熱心に部活動に励む手のかからない真面目な学生という印象だけだったと思う。

 稽古の締めである乱取りでは・・・

 ヨシバはさすがにいい動きをした。背負い投げにいくと見せかけて連絡してくる技”小内刈”に最初は何度もひっかかり、倒されてしまっていた。しかし、毎日、手合わせを続けているうちに小内刈を仕かけるタイミングを読めるようになり、その瞬間に合わせて払い腰をかけるとおもしろいように彼を投げ飛ばすことができた。

 アリノは左組手で、とてもやり辛いのだが、支え釣り込み足や大内刈の足技で散々に体勢を崩してから技をかけると大抵は1本で仕留めることができた。ただ彼の体落しは、意外に鋭かった。油断しているとこっちが転がされることもあり。

 重量級のタニは130キロをゆうに超えている巨漢で、なんとなく大器の片鱗を感じさせる男だった。某相撲部屋の親方がスカウトにきたという噂が実しやかに流れていた。得意技は大外刈である。たたみかけるようなパワーで技をかけられるととてもじゃないが防ぎきれない。だが、動作が緩慢で素早い大内刈と払い腰の連絡技を使うと動きにまったく着いてこれなくなり、体重の軽いサガワでもかろうじて投げることができた。

 この頃になると1年生も足払いだけで、先輩から吹っ飛ばされるやつもいなくなる。敵わぬまでもかなり踏ん張れるようになっていた。就中、ひょろマツやキツネの成長ぶりは著しく時にアリノあたりを投げ飛ばす場面も多々あった。

 グランド、つまり寝技ではサガワに及ぶ者など存在しない。どこで知識と技術を身につけてくるのだか不明だが、部員全員がサガワのなされるがままに翻弄される。特に送り襟締めの体勢に入ったら誰もはずすことは不可能だった。まさに神様カール・ゴッチばりである。

 稽古はキツイけど、とても充実した高校時代の日々はゆっくりと穏やかに過ぎていった。

 半ドンの土曜日には、稽古終了後によく街へ出た。そして黒珈琲という喫茶店に入り、柔道部のヨシバやアリノ、タニなどとたわいもない会話をしながらだべっていた。

 もちろん後輩を黒珈琲へ連れていくこともあった・・・

「サガワさんは、卒業したら陸上自衛隊ですよね。やはりレンジャーや空挺とかを希望するんですか」
 ある日、ひょろマツが訊いてきた。するとキツネが、
「あのな、ひょろマツ、おまえ、なに言ってるんだよ。先輩は海の男がよく似合う。やはり海上自衛隊だと思うよ」
 サガワの顔をちらりと覗きながらほざいていた。
『バカモノ、他人の進路を勝手に決めるな』
 思わずサガワはふたりにゲンコツをかましていた。この当時、将来のことなどなにも考えてなかった。

 まったく女っけもない高校時代なのだが・・・

「初めましてサガワ先輩、一緒にトランプしません」
 黒珈琲でいきなり2人組の女の子に話しかけられた。
『え・・・』
 サガワ先輩は目が点になっていた。
「同じ高校の1年のイシダです。こちらは同級生のオカモトさん。さあ、始めましょう」
『い、いや、おい、ちょっと待ちたまえ』
「せんぱ〜い、ただトランプするだけなのにうろたえないでくださいよ。ウフ!」
 しかし、可愛い。

 あろうことか、鬼より怖いサガワが彼女たちとひょろマツやキツネを加えた5人で当時流行の大富豪(大貧民ともいった)をするという世にも奇妙な事件に巻き込まれてしまっていた。

 ママは堪えきれずに噴き出してるし。

 有線からは、この年のあみんのヒット曲”待つわ”が流れていた。

 わたし待つわ〜♪ いつまでも待つわ♪

 硬派サガワが女の子とトランプですか?

 なんだか、無茶苦茶な展開になってきたような気がする?

 クリスマスイブの日、イシダからぶかぶかの手編みのベストをプレゼントしてもらった。けど、サガワは礼をいうもののどう措置いいのか非常に困ってしまう。

 今でも実家のタンスの中にイシダが編んだベストが納まっていると思われる。

 サガワは特にもてるタイプではないと思うが、作者が後年娶った妻の話によると男と女の感覚は違うそうだ。特に部活とか激しくやっていると奥手になり易くなり、エネルギーが違う方向へ飛ぶ?逆に女性は比較的早熟な人が多く、王子様願望が強くなるらしい?

 そんなことなど当時の純粋可憐なサガワくんが知るよしもない。

”ゴメンナサイ・・・自分は修行中の身なので赦してください”

 まだ若いサガワは、愚直にお硬いだけの男だった。ほとぼりが冷めるまで黒珈琲には寄りつかなくなってしまう。

 サガワの両親は放任主義というか、本人が真面目に柔道さえやっていれば安心している様子で、余計な口出しを一切しなかった。もっとも彼自身も学校での出来事などを自宅でぺらぺらと語ることなどない。家でもひどく無口な男なのだ。   




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