北海道ツーリング2005前編




シリエトクの草原



15



 熊の穴のライハへ戻る。もう疲労困憊だ。荷物を降ろし、メインザックの登山道具の荷を解いで、ツーリングバックへ収納した。そして食堂へ向かう。3日ぶりにインスタント以外の料理を食べたい。

 俺はホッケ定食、AOさんはラーメンをオーダーした。

 AOさんとオジサンは、世界自然遺産の範囲について難しい話しをしていた。とにかく相泊から規制の範囲になるらしい。また羅臼側とウトロ側の解釈も食い違いがあるそうだ。規定自体が曖昧な表現なので、それぞれ都合のよいように拡大解釈・判断しているとか。

 まあ、それも今回の世界遺産登録により、明確なガイドラインが引かれるのは間違いあるまい。今後の知床岬踏破は、あくまで登山という大義名分でも難しくなりそうだ。

 熊の穴のオジサンの話だと、地元の人間のガイドを雇うのが前提になるかも知れないらしい。そうなるとガイド料は5万円以上になるだろう。それとも現行通り、単独での知床岬踏破は禁止ということで収まるのか?現時点では知るよしもない。

 ただ海上については知床の漁師の生活エリアなので、世界遺産へ登録されたからといって、今さら規制するのはおかしいという地元関係者の主張が認められたそうである。とにかく水面下でいろいろな思惑が錯綜している段階といえる。

 環境省は、法整備や地元の利害関係もしっかり計算しないまま世界自然遺産に登録して、自分の都合のいいように仕切りたいだけだと思えてしまうは気のせいだろうか?

 煙をもくもくとあげる観光船より、苦労を重ねながら年間僅かしかやってこない徒歩の登山者・トレッカーが、生態系に重大な影響を及ぼすとはとても考えられない。

 注文したホッケは型が大きく脂が乗っていてとても美味しかった。
「画像を撮らないんですか」
 AOさんに言われた。
『デジカメをあいにくライハに忘れました』
 俺は笑いながら応えた。シリエトク踏破で全集中力を使い果たしたようだ。

 支払いをするときお札が濡れていた。
『すいません、ペキンノ鼻で海中に水没したので濡れてました』
 オジサンもオバサンも爆笑しながら
「いいんだよ」
 優しく言ってくれた。

 腹いっぱいで、ライハに戻った。食堂で購入した焼酎の封を切り、マグカップへ注いだ。チビリチビリと酒をなめるように飲む。でも、なんだか疲れ過ぎて体がアルコールを拒んでいる。それより眠い。

 AOさんも同様らしい。やはり体はまだシリエトク踏破の緊迫感が続いていた。そして20時には深い眠りについていた。

 夜が明けると・・・

 体のあちこちが痛い。でも習性で早朝に起床してしまう。

『俺は相泊温泉で体を流して来ますが、AOさんはどうしますか』
 AOさんは忙しそうに荷物をまとめていた。

「私は明後日までに札幌に戻らないといけないので遠慮します」
 とのこと。

 俺は4日ぶりにゼファーへ火を入れ相泊温泉へ向かう。快晴の早朝の走りはとても心地よかった。

 相泊温泉の男湯には夫婦で来たという年輩のご主人が既に湯に入っていた。俺も体を流して湯に入った。5日ぶりの湯は本当に心地よい。

「山にでも入っていたのかい?」
 温厚そうなご主人は俺の汚れきった登山靴に目をやりながら訊いてきた。

『実は知床岬まで縦走してきました』
 俺は顔を湯でこすりながら答える。

「知床岬まで?それはお疲れさん。ずいぶん時間がかかったことだろう」
 目を丸くしていた。

 じっくりと湯につかり、着替えを済ませた。駐車場で朝食をとっているご夫妻に挨拶を済ませ、熊の穴へ戻る。

 熊の穴前の駐車場では、AOさんが周到にパッキングを整え、札幌へ向けて出発するところだった。
 AOさんは特に登山が趣味でもなく、あまり運動もしていないそうだ。今回の知床岬踏破も戻ってからのダメージが大きく満身創痍だ。そんなになるまでつき合ってくれて本当にすいませんでした。この恩はいつの日か必ず返します。

「それじゃ、14日のオフキャンプで」
『お世話になりました』
 AOさんが大きく手を振り、相泊を駆け抜けていく。その後姿を暫く見送り、ライハへ戻った。
 やがて気温がぐんぐん上昇してきた。汗が額から滴り落ちながら荷物をまとめていると
「おはよう」
 熊の穴のオジサンだ。
『おはようございます。今回はすっかりオジサンにもお世話になりました』
「なんもゆっくりしていけ」
 まるで好々爺のような表情だった。

「この夏はよ、天気に恵まれて順調に船が出せるからいいよ。キタノ、来年も羅臼に来い」
『たぶん、もう、シリエトクまでは歩くことはないけど、この食堂にならまた来ます』
 俺が言うとオジサンは吹き出しながら食堂へ戻って行った。

 荷物のパッキングを終え、プレハブの建物へ掃除機をかけた。

 駐車場でマシンを暖機させながら、開店前の食堂の戸を開けた。オジサンは、もう釣り船で出航したらしい。オバサンにお世話になった礼を言うと
「気をつけて行くんだよ」
 と、笑顔で答えてくれた。

 さて出撃するか。
 まず向かったのは羅臼の「まるみ食堂」だ。羅臼に来たら、ここでまるみ定食を食べるしかないでしょう。

 出てきたまるみ定食のボリュームはなんだ。去年よりバージョンアップしてるぞ。半身のカニではなく、タラバと毛蟹に2尾、で〜んと乗っている。さらに刺身や煮魚・焼き魚、ツブ貝の煮付け。素晴らしい。けどあまりの量の多さに今年も完食できず、少し残してしまう。
 外へ出るとご夫婦ライダーが俺の横へマシンを停めた。そして、俺のゼファーをしげしげと見ている。

「あの、同じ福島ナンバーなんですね。私たちは郡山からなんです」
 奥さんが話しかけてきた。
『俺は福島市内です。近いですね』
「どちらを周られて来たんですか」
『ええ、昨日まで知床岬を目指して歩いてました』
「岬ですか。凄いですね。私たちには無理です」
『もしよかったらホームページでアップしますのでご覧ください』
 俺は、ちょっとぶっきらぼうな言い方をしてしまったかも知れない。

「もしかして、あの永久ライダーの軌跡の方ですか。トップがとても綺麗な」
 トップのタイトルバーナーはプロのCGデザイナーが制作したものだ。そう言っていただけると嬉しい限り。

「ここでお会いできるとは思いませんでした。これからどちらに?」
 うっ、なにも考えてなかった。これからどうしよう?
『すんません、まだ考えてませんでした』
 まあ、この場では軽く会釈しながら、俺はマシンのスロットルを挙げる。

 ゼファーは、飼い主を待ちわびた愛馬ようにサイクロンから鋭い排気音で嘶いた。

 もう俺は当分、歩くのはパスだ。登山もこの旅ではやめにしよう。

 基本に返り、キャンプツーリングのみに徹しよう。知床岬踏破で俺の旅に大きな転機がきたのは確かだ。実は、今までの登山もシリエトクへの予行演習に過ぎなかったりする。

 悲願の知床岬を縦走してしまった俺は・・・

 これから、どこへ行ったらよいのだろう?

 俺は、ここ数年、知床岬踏破だけを目標にしてきた。

 自らの足でシリエトクへ辿り着くことだけがすべてだった。

 目標のなくなった俺は脱殻になっちまったのか?

 これ以上過酷な旅は出来ないし、知床岬踏破を実現すると他のことが、すべて色あせて見える。

 もう、どこへ行ってもシリエトク以上の感動は得られないような気がしてならない。

 終わった。本当に終わっちまった。北海道でのミッションは、すべて達成した。

 つまり、燃え尽き症候群というやつか?

 これで北のサムライと呼ばれた男の北海道ツーリングが終わってしまっていいのかい?

 燃えるような真夏の陽は既に中天近くへまで達し、知床の海は穏やかに凪いでいた。

 まるで、何事もなかったように。

 ただ、機上の俺の襟に巻いたバンダナだけは、バタバタと知床の風に勢いよくなびいている。

 北のサムライの針路は杳として知れない。 



FIN



記事 北野一機



2005年9月吉日UP完了



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