『弁当は、いつもより多めにしてくれ』
 俺は妻に命じた・・・いっ、いえ、お願いしました。
「あなた、遭難騒ぎとか起こして新聞に出るようなことだけはやめてね」
 怪訝そうな顔をした女房から昼弁当を手渡された。

 早朝、6時半。土湯トンネル近くの集合場所「野地温泉」へ向かった。多分、俺の顔はひきつっているだろう。なにせ羅臼岳踏破以来5年ぶりの本格的な登山だ。しかも初の縦走だし。目指すは百名山「本物の空」のある高名な安達太良山一帯だ。

 コンセプトは来月に控えた大規模な登山計画におけるルート調査である。そんな重要な使命を帯びた調査隊に俺のような素人が入って大丈夫なのか?

 R4から安達太良方面へ入り、山間部を暫し走る。陽光きらめく新緑の光景にとても癒されるが、やはり緊張の色は隠せない。

 自宅を出発してから1時間ほどで、野地温泉駐車場へ到着した。煙草をふかしながら暫し待つと参加の皆さんが三々五々と集まり出した。知らない人ばかりだし。

 意を決して
『本日お世話になる北野です。今日はよろしくお願いします』
 と挨拶すると
「ご苦労様です。お願いします」
 と年長風の方が挨拶を返してくれた。

 参加者14名を2班に分け、それぞれに隊長を決め、別々のルートを調査することとなった。俺の入った班は塩沢登山口から安達太良山頂上を踏破し、沼尻登山口へ向けて縦走するルートだ。さっそく塩沢〜沼尻縦走隊の隊長車に便乗し、塩沢スキー場へ向かった。

 塩沢登山口には残雪がなかった。実はここも後日の幕営候補地だ。
「軽いペースで行きます」
 先頭に立った隊員が言った。

 樹林帯のなだらかな登りのコースだが、ベテランの山屋揃いらしく俺にとっては速く感じた。

 それにしても皆さん無口だ。小気味よいほど同じペースで黙々と歩いている。 
 残雪も目立ち始めてくる。そして雪崩で押し倒された樹木があちこちで道を塞いでいたが、次々と突破して進んで行く。
『く、苦しい』
 その頃、俺の息は既にあがっていた。ハーハーと口で息をし、隊からは少しずつ遅れだしていた。日頃の運動不足がやはり出たか。

 実に情けない。
 見かねた隊長が「屏風岩」付近で休憩をとってくれた。

 屏風岩の下は深い谷になっていてかなりビビっていると居合わせたおじさんが
「あの鳥を見てごらん。綺麗だろう」
 と指差している。

 とても美しい青い小鳥だった。オオルリというそうだ。
 あっという間に出発。

 道はどんどん険しくなっていく。→画像の通り、融雪で沢の水が増し、丸木橋が途中7本ぐらい架けられていた。しかし、水で濡れた丸木はとても滑り易い。

 案の定、北野は丸木の上で滑り、転落するところを隊長にロープを引いてもらい救助される。

 こえ〜
 ここに架かるトラロープは、緩々でほとんど役に立たなかった。北野ほどではないにしろ、足を滑らす人続出。

 隊長によるとロープは触れているだけにして決して頼ってはいけないそうだ。頼ると間違いなくバランスを失い転落してしまうとか。

 こんなポイントを7つも越えると足がガクガクになってくる。
 沢渡りコースをクリアすると急な登りだ。もう道と言えるものではなく崖登りといった様相を呈してくる。

 気を緩めると後続の人に石を落としてしまうので慎重を極めつつ、ゆっくりと足場を確認ながらよじ登る。

 腕が痛い。
 悪戦苦闘の末、崖をよじ登るとそこは雪国だった。しかも倒木の小枝が道を塞ぎ、非常に歩きづらい。

 Y隊員が雪の重みで倒れていた木を跨いだ瞬間に突然木が跳ね起き、股間へ痛い展開となり思わず一同爆笑する。

 ここで実は悪路慣れしていない俺の右脹脛に鈍痛が微妙に走りだす。後刻、大変な目に遭うとはこの時は知るよしもない。
 険しい道のりを乗り越えるとようやく山小屋「くろがね小屋」が見えてくる。ここは温泉が引いてあり日帰り入浴360円ほどで温泉に浸かれるそうな。泉質は、単純酸性温泉。効能は、疲労回復、神経痛、皮膚炎など。

 くろがね小屋で小休止。持参した水が死ぬほど美味い。

 もちろん温泉には入らず出発。
 遙か向こうにはよく晴れ渡った空のもと安達太良山の頂上(ちちくび)が見えている。

 一列縦隊で皆さんガレ場のキツイ傾斜を黙々とよじ登っていく。あと少し。俺の体は汗びっしょりだ。

 続いて残雪の上を突破した。ゆっくり歩くと足をとられるのでスタスタと早足で進んだが、途中、何度も滑落しそうになる。 
 ゼーゼー言いながら雪渓をようやく抜け、急なガレ場を下り、また登りへとうって代わる。ここを乗り切れば頂上はもうすぐそこだ。

 また俺は集団から取り残されがちになる頃、既に遙か高い地点にいる隊長が・・・
「フォ〜・・・」

 ドキッとした。隊長が吠えてるよ・・・

 ヤッホーなんて生易しい声じゃない。野獣だ。H隊長は年齢的には俺と同じ世代のようだが、腕や足は筋肉で俺の倍もふくれている。髪型はモヒカンっぽい。さらにサングラスをかけているのでとても堅気には見えない。

 登山道などもあんまり関係ないらしく頂上が見えれば、どんな山でも直線的にアタックしてしまう超人だったのだ。縦走の際は自転車を担いで困難な山でも楽勝で制覇し、チャリで帰還してしまう。鉄人レースのチームも持っている大変な人物だった。

『凄まじい男もいるもんだ』
 と感嘆していた・・・

 その時・・・
「うっ、いてえ・・・」
 俺の右脹脛から激痛が走った。

 あと少し(見た目では。実際は結構ある)、頂上まで本当にあと少しなのに・・・

 俺はその場で痛みに耐えかねてうずくまってしまった。

 北野の安達太良山頂上踏破はなるのか?

 それより隊の皆様にご迷惑をおかけしては・・・

 とにかく動けねえ・・・




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