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クリスマスイブその2
クリスマスイブに照準を合わせたかのように低気圧がやってきた。いわゆるクリスマス寒波到来というわけだ。1980年代初頭の事実なので知る人ぞ知る大荒れの気象状況である。この日は朝から断続的に雪が降り続き、街全体がすっぽりと白い絨毯に覆われてしまった。 放課後、歩きづらい道を何度も転びそうになりながらも黒珈琲へ辿り着く。学生服についた雪を払いドアを開けると 「いらっしゃい。彼女、もう来てるよ」 ママさんが、にやにやしながらマリの方へ眼をやっていた。 マリは、ぼんやりと窓の外を眺めている。なんとなく寂しそうな表情をしていたのだが、俺の姿を見つけるとニコッとかわいらしく微笑んだ。 『大丈夫だったのか。こんな雪道なのに随分早いんだな』 「ええ、わたしは冬山の登山もするからぜんぜん平気よ。年末年始もね、家族でアルプスの山荘に泊りがけで出かけるの。父がね、元旦のご来光を見るんだって張りきっちゃって」 彼女は、とても楽しそうに話していた。 「あっ、そうそう。これクリスマスプレゼント」 『ありがとう』 「開けてみて」 包装紙を開くとバンダナが出てきた。しっかりとした生地だ。多分、本格的なアウトドア用で高価なものではないだろうか。 「バイクに乗せてもらったとき、襟元から風が入ってきて寒いと思ったことがあったの。本当は手編みのマフラーにしたかったんだけど、受験生で時間がないし。それにキタノくんには、こっちの方が実用的で長く使ってもらえそうな気がして」 『ありがたく使わせてもらうよ』 「本当!嬉しい」 にこにこしながら、マリはコーヒーに口をつけた。 『これぇ、たいしたもんじゃないけど俺からだ』 「え、わたしに。ありがとう。開けていい」 マリが箱を開け、トッテに仔猫の飾りがついたコーヒーカップを取り出した。 「まあ、カワイイ。もちろん愛用させていただくわ」 俺の贈り物は、かなり安っぽいカップだが喜んでもらえて安堵する。 「わたしね、本当はね、キタノくんって近寄り難かったの。いつもひとりで怖い顔をしながら歩いているでしょ」 『俺、そんなに怖い顔をしてるか』 「今は少しも思わないけどね。実は6月の柔道の大会を観戦して、どうしてもあなたとお話ししてみたくなって」 6月の大会は、うちの学校の体育館で開催された。個人戦は3回戦で負けたし、団体戦もいきなり強豪校と対戦するハメになり結局は初戦で敗退してしまった。 「団体戦の5番目にキタノくんが出場したでしょう」 あの団体戦は5人中4人があっけなく敗れて、もう結果は決まっていた大将戦である。でも俺にとっては高校最後の戦いなので悔いのない試合をしたかった。 相手は県の重量級チャンピョンのヒライという男である。色白で巨大な体格を持つことから「白い壁」とか「人間山脈」という異名があり、他校の柔道部員から恐れられていた。体重差は当時の俺のざっと2倍。力も技もはるかに俺を凌駕している。また柔道強豪大学からはもちろん、さらには大相撲やプロレス団体からもスカウトされているという噂が実しやかに流れていた。 俺は試合開始早々から、何回も吹き飛ばされ、有効ポイントが次々と加算されてしまう。 「それでもキタノくんは、幾度となく相手に挑みかかっていったでしょ。なんだか猛烈に感動しちゃって。世界中を敵にまわしながら、たったひとりで戦う孤独なサムライの姿が彷彿したわ」 実際に戦っている俺は無我夢中だった。ヒライはなかなか俺を一本で仕留められず焦っている様子だ。というより、意外な反撃を受けるようになり明らかに動揺していた。俺は、ヒライの体を揺さぶるだけ揺さぶり、僅かに隙を見つけては素早い足技からの連絡技で払い腰をくりだした。俺のスピードにヒライは防戦一方でまったくついてこれてない。 「おおーっ」 ヒライの圧勝を信じて疑わなかった多くの観戦者から驚きの声が起こった。キタノの気迫が場内に伝わったのである。大方の予想に反して白熱の接戦となり、それぞれを応援する凄まじい大歓声が沸きあがった。 あと一歩だ。あと一歩で、この巨漢を崩せると思った刹那、ヒライは圧倒的なパワーに物を言わせた強引な背負い投げを仕掛けてきた。俺は間一髪、踏みとどまったつもりだったが、これはヒライの罠だった。直後に真後ろへ叩き返されてしまう。俺は背中をつき技ありをとられた。 だが、ここで俺にとっての千載一遇の勝機が見えた。背後には倒れたが、俺の両腕はヒライの大きな背中から頚動脈をがっちりと捕らえたのである。足は胴に確実に絡ませ体をやや斜めにずらした。いかにヒライといえどもこの完璧な送り襟絞めの体勢を外せるわけなどない。 ヒライは懸命にもがいていたが、もがくほど首筋に襟元が食い込んでいく。やがてぐったりとして動かなくなった。つまり失神したのだ。落ちるまでギブアップしなかったヒライの敢闘精神は、やはり常人の域を超えていると思った。 ”柔よく剛を制す” 主審から一本勝ちを宣告される。県内、いや東北不敗といわれるヒライと死闘を演じ、辛勝した。信じられないという思いで、俺は青畳の上に呆然と立ち尽くしていた。波瀾の結末に場内は一瞬不思議な静寂が保たれていたような記憶がある。やがて観戦に来ていた同じ学校の生徒たちによる割れんばかりの歓声と拍手に押し包まれていく。まさに奇跡の逆転劇であった。 「キタノ、見直したぞ。まるで巨鯨に立ち向かう鯱のようだった。よくやった」 自分のクラスの生徒にまったく関心を示さない典型的なサラリーマン教師のカキザワという担任が、後刻、顔をくしゃくしゃにしながら珍しく俺を誉めた。 「どんなに厳しい状況でも最後まで諦めないで戦い続けて強敵を倒したあなたの姿、とても素敵だった。わたし、見ていて涙が止まらなくなったわ。実は隠れキタノファンも意外に多いのよ」 『いや、俺なんかの柔道じゃ全然だめだよ。あの試合では、たまたま勝てたけど、結局3年間一度も入賞できなかったんだ』 俺はすでに冷たくなったコーヒーを一口で飲み干した。本物のモカは冷めてもコクがある。 正直いえば、過去に同学年や年下の女子生徒たちから幾度か手紙をもらった経験がある(中には手編みのベストを贈ってくれた人もいて驚いてしまう)。でも、どうにもその気になれず、すべてを黙殺してしまっていた。 部活が忙しかったし、どう対処していいのか俺にはわからなかった。つまり奥手だったのだが、いつの間にか冷やかし半分の”硬派キタノ”という素直に喜べない渾名まで頂戴してしまう。恐らく多分に揶揄が含まれていたようなニアンスを感じていたのかもしれない。 やがて時間は刻々と経過していく・・・ 「あんたたち、そろそろ引き上げたほうがいいよ。雪がどんどん激しくなってきたから、もしかしたら国鉄が不通になる気がするの」 ママさんは、外の様子を心配そうに眺めていた。 そしてプツン・・・ 停電だ。これは電車が確実に停まっているだろう。 「とりあえず駅に行ってみます」 ママさんに告げ、マリを連れて駅に向かった。街がとても暗い。雪も容赦なく顔面に直撃し、視界を遮った。 非常用の灯は点いているが駅も大混乱していた。やはり電車がストップしてしまい行き場なのなくなった人たちが右往左往している状況だ。 そんな中、マリが急にしゃがみこんでしまった。 『どうした?』 「ちょっと気分が悪くなって」 激しく咳き込み、とても苦しそうだ。顔色も悪い。 『歩けるか。無理なら俺にオンブしろ』 「で、でも恥ずかしいわ」 『恥ずかしがっている場合か』 俺はマリを背負いながら、とりあえず待合室に向かった。 ”聖この夜”に俺は、どうすればいいんだ。 |