追記 



 わたしはリョウを置いてきてしまった。最後にはっきりと別れを告げられないまま。どれだけリョウを傷つけ悲しませてしまったことだろう。

 周囲は巨大な草原。誰もいない。

「ここはどこなんだろう?あの世っていうやつ?」
 ルイは呟く。

 おまえには、まだ果たすべきことがある

 誰の姿も見えないのに不思議な声だけが響いた。

「え、なによそれ?わたしの命はもう尽きているはずよ?」

 その瞬間、

 ゴォォォー・・・

 大きな雷鳴のようなものが鳴り響く。

 もの凄い突風が吹き荒れ、草原を波のように揺るがしている。

 これは・・・

 もしかしたらこれって、そういう風に決められていたことなの?

 リョウとの約束を破らなくてすむの?

 リョウがシリエトクでルイのスナップを袋に入れて丁寧に埋めている姿がはっきりと見える。

 彼の横にいる人物(キタノ)がとても気になった。強力な”念”が全身から放たれている。もしかしたら、この人、既に固体ではなくなった、わたしの存在を察知しているのかも知れないわ。

 でも害意は感じられない。むしろ男からは温かい善良な意識ばかりで溢れていた。

”あなたが誰なのかは知るよしもありませんが、どうか、リョウが立ち直るまで力になってやってください。よろしくお願いしますね”

 そういうメッセージ(信号)をキタノへ向けて発信した・・・

 あの人にきちんと届いたかしら?

 やがてルイの躰は激しく旋回しながら宙へと舞い上がってゆく。どこまでも遥か彼方へと昇天していった。

 いつの間にか周囲にはおびただしい数の星々が渦状にきらめく、荘厳な光の空間へ辿り着いていた。

 大宇宙の悠久の流れに比べれば、人の命など一瞬のことである。

 寿命が尽きれば無に還る。しかし、また無の世界から新たな生が産まれくるのだ。

 色即是空 空即是色

 大いなる意思に伴走され、ルイは自らの躰から激しく輝く光を発しながらどれくらい時空を彷徨っていたのだろうか。やがて一点を見出し、なにかを確信したかのように頷いた。

 ルイの顔は、穏やかに微笑んでいる。

 もうなんの迷いも、後悔もない。

 踵をかえすように彼女は元の世界へとふたたび降臨してゆく。その刹那、北の大地に鮮やかな輝きを放ちつつ、火球(流れ星)がゆっくりと下降していった。

 落ちた先は未来ではなく、過去(1984年)の札幌へと・・・

 そして、約束された場所へと。大いなる意思が時空を乗り越え、新しい未来が創られていく。つまりシリエトクの奇蹟が今、劇的に動き始めたのだ。

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 猛暑の夏、ウトロ港近くにバイクを停めたツーリングライダーがいた。

 カミイリョウ

 シリエトク踏破、そしてルイとの別れから、ちょうど1年。彼は自らの意志で旅人として知床に帰ってきたのだ。

 旅に出る前、裏磐梯や猪苗代方面にキタノとキャンプツーリングをして、基本的なライディングテクニックや野営術のノウハウは伝授してもらっていた。

「わたしに会いたいから、またシリエトクを踏破したいだなんて考えちゃだめよ。生涯に一度だけで充分な日本最後の秘境の地のままにしておいて」
 ルイからの最後の手紙で念を押されていたので、今度は海上からシリエトクを望んでみたいと考えていた。

 リョウは知床観光船「おーろら」に乗り込んだ。

 やがて船は静かに動き出した。全身に吹きつける海風がとても心地いい。

 カムイワッカの滝、カシュニの滝、獅子岩と次々と現れる絶景に胸を打たれる。

 いよいよ折り返しポイントのシリエトクが近づいてくる。リョウにはわかる。あの光景。あの匂い。あの草原の響きのすべてが・・・

「ルイ、今、帰ってきたよ」

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 アオヤマユイ

 札幌市内に住むOLだ。知床に魅せられ、市内の短大に通っている頃から毎年、夏になるとウトロで観光船「おーろら」に乗りシリエトクへとやってくる。

「どうしてこんなにシリエトクに惹かれてしまうのかしら」

 彼女自身にもわからない。ただ地の果ての広大な草原から、ユイになにかを雄弁に語りかけてくる気がしてならなかった。

 決められていること?

 それがいつしか切ない思いへと転化し始め、シリエトクへと吸い寄せられてしまうのだ。

「ルイ、今、帰ってきたよ」
 遠い目をしながらシリエトクに向かって優しく話りかけている青年の声が聴こえた時・・・

 おまえには、まだ果たすべきことがある

 シリエトクの方角から不思議な声が響く。そして、まるで電流に打たれたような激しい衝撃にかられた。

 こっ、この人・・・

 カミイリョウ・・・

 知らないはずの人物の名を思わず口にしてしまう。

”生まれ変わってもあなたに逢いたかった”

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 リョウはふと不思議な視線に気づいた。隣には若い女性が立っており、リョウを真摯な眼差しで見つめている。

「そっ、そんな・・・」
 ルイだった。ルイが傍にいる。

 見た目はルイとは別人だ。けど、彼女自身が放つ、穏やかな優しいオーラをリョウが間違えるわけなどない。

 ルイ、きみに訊きたいことが山ほどある。シリエトクのことだって・・・

 しかし、いくらなんでも本当にこんなことが?

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「あの・・・」
「あのう・・・」

 リョウとユイは同時に話しかけた。

 そして、お互い噴き出してしまった。

「あのぼくはカミイリョウ」
「わたしはアオヤマユイ」

「去年の今頃、ぼくは相泊から徒歩でシリエトクまでいったんです」
「まあ、凄いんですね。大変でしたでしょう。でも、とっても羨ましいわ」

「カミイさんは、シリエトクで鹿の角を拾うとなんでも願い事が叶うという伝説をご存知ですか?」
 ユイは涙声で訊いてくる。
「ええ、もちろん。シリエトクの奇蹟のことですね。去年、ぼくも知床岬で鹿の角を拾いました。でも本当に願いが叶うものなんですね」
 リョウの瞳からも滂沱の涙が溢れだす。

「お帰り、アオヤマユイさん」
「ただいま、カミイリョウくん。心配かけちゃってごめんなさい」
 
 ユイは、両手で眼を覆いながら号泣していた。リョウはユイの小さな肩を静かに抱きしめながら何度も頷いていた。

「カミイくん、アオヤマさん、事情はよく知らんけど、再会できて本当によかったじゃないか。なんだか無性に感動しちまい、こっちまで熱いものが込み上げてきたよ。おめでとう。万歳!」

 『万歳!』、近くにいた恰幅の良いオジサンが満面の笑みで叫ぶと、デッキに居合わせたたくさんの観光客から拍手やら快哉の声やらが大きく湧き上がった。

 多くを語らずとも、北の旅を愛する人たちの心は誰もが寛容であり温かだった。

 広大な緑の草原の中で知床岬灯台が磐石の姿勢でそびえ立っている。その姿もどこか優しげに映っていた。

 万歳!シリエトクの奇蹟・・・

 やがて軌跡となり、新しい物語が生まれようとしていた。




FIN



北野一機 作品



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2006.12.24UP



※物語に登場する人物・団体はすべてフィクションです。