中国・四国紀行2002
平成14年3月20日から22日
しまなみ海道
本州から四国まで、瀬戸内しまなみ海道は6つの島を結んでいる。それぞれの島は見どころが多く、できれば宿泊しながらゆっくり周りたいところだが、あいにくサラリーマンの悲しきサダメ、年度末にそうもいかないのだ。まとめどりのできる夏は北海道の旅に徹したい(贅沢だけど)。「しまなみ海道」、時間があれば徒歩や自転車で散策しながら旅をしたいと思った。 |
しまなみ海道尾道大橋
以前から職場の仲間数名と共に年度末旅行の計画を立てていた。当初、僕は冬の北海道への旅を強弁に主張していた。しかし、「寒い」という理由で皆の反対にあい、暖かい四国・中国への旅行と相成った次第。 3月20日 晴れ 早朝に起床。準備万端で集合場所から仙台空港に向かった。仙台空港はかなり風が強い。それでも無事、予定の時刻にフライト。機体が小さいのと強風でかなり揺れた。1時間半ほどで広島空港に着陸する。かなり気温が高いような気がした。薄手のハーフコートを脱いだ。そしてかねてからの手筈通り、レンタカーをチャーターして山陽自動車道から尾道へ向かう。日差しがまるで初夏を思わせる。 |
尾道
港町尾道は、昔から瀬戸内航路の要衝だったらしい。山が海の近くまで突きだしている感じだった。大林映画でおなじみの坂の風景が楽しめる。坂の合間に古い造りの瓦屋根の民家が立ち並ぶ。また歴史を感じさせるお寺も点在していた。なぜかとても懐かしい雰囲気が漂う。志賀直哉、林芙美子を始め、多くの文豪もこの風景に魅了させられたそうだ。尾道を舞台にした映画や小説も数多く制作された。 |
千光寺公園から |
昼食は尾道インターを降りてすぐにあったラーメン専門店「豚珍香」でとる。なかなか美味しい尾道ラーメンだった。 千光寺公園から定番の坂や瀬戸内海の風景を楽しみ、映画記念館なるものを訪ねた。同行者のひとりが大林映画のファンだと言うので。ところが・・・ ほとんど美空ひばり関係ばかりで、大林作品はなにひとつございません。彼は落ち込んでいた。僕はネットができるのを発見したので、自分のBBSへ投稿してみるなど時間を潰す。 |
その後、人間1人百円、クルマ1台30円の渡し船で向島へ・・・ おそらく通勤や通学など生活の脚として地元では欠かせないものなのだろう。渡し船は、ここだけではなく他にもいくつかあるようだ。 向島から「しまなみ海道」へ入り、生口島へ渡った。ここでは同行の女性陣の要請で、高名な画家「平山郁夫」の記念館を見学した。ところが時既に16時をまわり、楽しみにしていた「大山祗神社」の博物館の拝観が不可能と判明した。歴史好きの僕はかなり残念。 |
岸本渡し船から向島を望む |
瀬戸内に沈む夕陽を望む(北条付近) | 柑橘類の果物が黄色く段々畑を染める山並み、見事なブルーの海の中に点在する小島群。噂以上の景観のしまなみ海道を満喫しながら四国今治に上陸した。生まれて初めての四国入りである。 瀬戸内沿いのやや渋滞気味の今治街道から道後温泉を目指した。松山市内でかなり道に迷いながらも今夜の宿「ホテル椿館」になんとか到着。すぐに夕食をとった。 |
道後温泉
今から約3000年前に湧き出したといわれる日本最古の名湯・道後温泉。古くは「日本書紀」や「万葉集」にも登場し、夏目漱石ら多くの文人墨客も訪れた。公衆浴場として初めて国の重要文化財に指定された道後温泉本館を中心にしており、付近には名所旧跡も多く、風情ある町並みだ。(注)夜は客引きに注意。 |
その後、道後温泉近くに在住の北海道旅仲間・高市氏が椿館フロントへお土産の地酒(後で飲んだら非常に美味)持参で訪ねてきてくれた。 おー高市さんだ。約2年ぶり。懐かしいなあ〜。ご無沙汰してました。さっそく道後温泉本館向かいの有名な居酒屋で、じゃこ天、ザンギ、コンニャクサシ・・・等々、いろいろな郷土料理をオーダーしてもらい、地ビールを煽りながら舌鼓をうった。同行させた職場のかなり若い家来、もとい後輩も宿の手のこんだ懐石料理よりもはるかに美味しいと大喜びである。高市氏の話だと名物「じゃこ天」の原料となる小魚が、環境の悪化により、近年急速にその数を減らしているそうだ。 旧交を温めながら夜が更けていく。名残惜しいが今の僕は似合わない団体行動の最中だ。店自体の閉店も早い。お世話になった礼を言って高市氏と別れた。高市氏は相変わらず超がつくほど温厚な好漢である(破天荒な僕と違い)。宿に戻り温泉で汗を流し就寝する。最高気温22度、この時期としては、汗ばむほどの暖かな一日だった。 |
子規像 |
3月21日 雨後曇 6時半には起床した。窓の外は雨が降っている。ちょっと残念だな〜と思いながら朝風呂を堪能。バイキングの朝食にエキサイトした。満腹となり宿を出発。 まずはすぐ近くの子規記念博物館へ向かう。有名な正岡子規は、慶応3年松山藩士馬廻り番・常尚の長男として生まれた。東大文学部に進学したが22歳、喀血して中退し、新聞活動で活躍した。さらに写実主義をとなえ文学界へ新風を巻き起こした。死の2日前まで随筆「病床六尺」を発表し続けて明治35年9月に亡くなったそうである。 |
「春や昔十五万石の城下かな」正岡子規
城下町松山は、四国最大の人口47万人を持つ近代都市だ。俳人・正岡子規の故郷である。夏目漱石の「坊っちゃん」や司馬遼太郎の「坂の上の雲」の舞台となり、放浪の俳人・種田山頭火の終焉の地ともなった文学の香り漂う街でもある。 |
続いて松山城に向かった。標高132mの勝山山頂にそびえる松山城は、慶長7年(1602)から25年かけて戦国武将加藤嘉明が築城した日本三大連立式平山城のひとつだ。 あいにくの雨なので、リフトを利用して頂上へ到着した。桜が3分咲きの中、雨上がりのしっとりとした天守閣は、なんとも落ち着いた風情の佇まいを見せていた。 |
琴平
海の守り神として知られる金比羅宮の門前町。こんぴら参りの目印となった高灯籠や日本最古の芝居小屋「旧金比羅大芝居」などの多くの史跡が残り独特の風情が漂う。 |
長い石段の入口 |
松山道から善通寺ICを降りて琴平へ入った。まずは「灸まんうどん」で本格讃岐うどんに舌鼓をうつ。凄いコシだ。ぶっかけうどんを食べたが本当に美味しいと思った。 続いて海の守護神「こんぴらさん」を参拝。参道入口から785段で、かなりしんどいと聞いていたが、アルピニストの超端くれの僕には楽勝の登りだった。 途中、籠に乗って階段を登っていく人がいる。これがネット仲間のsnowyさんが言っていたやつか。かなりお高いらしい。 |
本宮にて参拝を済ませ、降りもハイペースで階段を進んだ。おっと皆を置いてきてしまった。どうもひとり旅が身についてしまい集団行動がしっくりこない。「灸まん本舗石段や」で茶でも喫しながら待とう。 ここは江戸時代から旅籠を営んでいたという老舗だ。現在は饅頭や羊羹など和菓子の製造直販をしている。お茶をご馳走になりながらあんみつをオーダーした。それが非常にフルーティーで美味しかった。 |
高松
江戸時代、松平家12万石の城下町として栄えたらしい。玉藻公園や栗林公園などの名所旧跡が点在する一方、中心部には日本有数のアーケイド街が広がっていた。ちょっと仙台市街に似ている、さっぱりとした町並みだと思った。 |
高松駅前の高松東急インに宿をとった。フロントでおいしい郷土料理を食べさせてくれる店を紹介してもらい全員でアーケード街へ繰り出すことにした。 歩くこと十分くらいで到着したのが割烹「見世屋」。一階に水槽や生け簀があり、生きた魚介類を目にすることができる。2階の座敷に通され、さっそく料理をオーダーした。鯛の活け造り、カワハギの活け造り、焼き魚、揚げ物各種。この時期に初鰹もあるぞ。もちろんタタキにしてもらう。どれも低料金で美味しい。なんと活け造りの鯛やカワハギのアラ(頭)でアラ汁も作ってくれるそうな。僕は自分の地元の漁師料理(みそ汁風)を想像していたが、出てきたものは煮付けだった。 なるほど西日本は煮るとは炊くことなのだ。もちろん煮付けも全部いただき、お腹一杯だ。このお店、低料金で豪華で美味しくて、絶対にお薦め! |
8月22日 曇 いよいよ旅行最終日だ。高松空港からの出航時間の都合で午前中しか時間がとれない。そこで市内中心部から比較的近い四国村に向かうことにした。 |
四国村
砂糖しめ小屋 |
四国村は、四国各地に残る江戸〜明治時代の民家や蔵を移転し公開する民家博物館である。小豆島の農村歌舞伎台、砂糖しめ小屋、灯台退息所、母屋、隠居屋、納屋などが残る中石家など31棟があり、うち8棟が国指定の重要文化財である。 |
約、800年前、平家一族が剣山の馬場へ通うために架設されたのが始まりとされる奥祖谷二重かづら橋。そのミニチュア版が四国村に架けられていた。下は池で「落とし物注意」の看板がかけられている。かなり歩きづらい。特に女性は、靴の関係で大変そうだった。 | かずら橋 |
わら屋入口 |
四国村の散策を終え、釜揚げの名店「わら屋」へ入った。コシの強い太麺は、讃岐の家庭で打たれていた昔ながらのものだそうだ。僕は、お薦めの「釜あげうどん」を食べる。イリコだしがよく効いたツユが麺に絡んで喉越しが旨い。 讃岐うどんを思う存分に食べ、満足して高松空港へ向かった。ところが空港にも本格讃岐うどんのお店が数軒あった。さすが「うどん王国高松」。存分に賞味したはずが・・・フライト前にどうにもうどんが食べたくなった。欲望に、いや本能に抗する術もなく、名店「かな泉」で生しょうゆうどんを流し込んだ。これで本当に思い残すことなく帰路につける。満腹で爆睡しているうちに仙台空港に着いた。 |
おわりに
職場の部署の分散会も兼ねる旅行でしたが、よい旅になったと思います。同行の皆様から旅人キタノに行程の面でいろいろ期待していただいていたようです。確かにこの旅に際して、ガイドブックでかなり調べましたし、ネット上でも情報を収集しました。でも僕は基本的に北海道以外は丘に上がった河童です。ただ単に旅慣れはしてますが・・・ひとりならきっと壮絶な展開になったことが自明の理です(笑) 個人的なことですが、仕事上のとある不快な出来事に対して、大いに憤慨し精神的にも相当ヘコんでおりました。そんな中、今回の旅から戻り、同行したひとりから「キタノさん、さっぱりしたいい表情に戻りましたね」と言われ、胸につかえていたものが落ちたような感がします。旅効果がでましたね。 つたない僕を支えていただいた居心地のよいこの部署も間もなく解散です。心からありがとうございました。でも皆さん観光ツアーではなく、いわいる自力系の旅にハマり、来年も同じメンバーで、旅をしようという動きが出てきました。今回の旅がモチベーションになる。素晴らしいことじゃないですか。もちろん僕も喜んで賛同させていただきます。 また、この旅に際して惜しみなく情報を提供していただいたネットや旅で知り合った皆様、本当にありがとうございます。たいへん参考になり、お陰様で旅が充実したものになりました。キタノは、実社会でもネット上でもこんな野郎?です。どうかまた懲りずに旅の情報をアドバイスしてくださいね。そして今後も変わらぬご厚誼を頂戴できれば幸いです。 最後に、またいつの日か四国を旅したいと思います。太平洋側も見たいし。ただし、その時はバイクのひとり旅になるやも知れません。 旅っていいよネ! |