あれは何年前だろう。 仕事がうまく行かず、日常のフラストレーションをかなり溜めながら、いつも遅くにマジェスティで帰宅していた。 真っ暗になった仕事帰りの道すがらコンビニで今夜の晩酌の酒を購入してからマシンに跨り、自宅に戻るのが、俺の日課だった。 そんなある秋の日、晩酌の酒を購入し、バイクへ向かい歩いていると老犬が居た。もう、かなり歳の毛並みがぼさぼさで薄汚れた犬だった。 『もう、家に帰れ』 犬好きの俺が声をかけると尾を振っていた。人懐こい犬だと思いながら家に向かった。 翌日の夜、やはりコンビニの駐車場へ入るとその老犬は居た。野良か?俺はソーセージを買い野良へやると勢いよく、そして実に美味しそうにあっという間に平らげた。なんだか気になったが、この日も俺は、ほぼ1キロ先の自宅へ戻った。 また翌日、この日は午後から雨だ。カッパを着込んでコンビニへ寄るとノラが駐車場で丸くなっている。びしょ濡れだ。そして俺のマシンを確認すると大喜びで尾を振っていた。買い物を済ませ、よぼよぼのノラを見て、俺はどうしようかと悩んだ。 『オマエには帰る家がないのかい?』 俺は意を決し、 『ノラ、俺の家はな、マッチ箱みたなチッポケな家だ。小なりとはいえ、それでも堂々たる俺の城だ。もし、よかったら着いてきな』 俺はゆっくりとアクセルを挙げた。しかし、ノラはなにかを躊躇っているかのように立ち上がったが動かない。恐らく、ここで信じていた主人に裏切られ捨てられたのだろう。ノラは健気に迎えに来るはずもない飼い主を何日も待っていたようだ。 『ノラ、雨ん中、外にいたら風邪ひくぞ。無理すんなって』 と言うと、ようやく、なにかをふっ切ったかのように哀しげな目をしながらヨタヨタと動き出した。ちょっとスピードを出すとノラは辛そうな仕草をするので、俺は本当にゆっくりと走った。 『今、帰ったぞ。お客さんも連れてきた』 玄関から叫ぶと、怪訝そうな顔をした妻が現れ 「あなた、野良犬を連れてきて、なに考えているの」 怒鳴られてしまった。ノラはとても気まずそうな顔をしている。 『いっ、いや、コンビニの駐車場で雨に打たれていてな、なんだか気の毒でな。とにかく、なんか喰わしてやってくれ』 と言うと、妻はとりあえず皿に晩飯のおかずの一部とご飯を用意してくれた。 『ほら、たいしたモンじゃないけど夕食だ。喰ってくれ』 どうしたことか、ノラは食べようとしない。 『遠慮すんなって。せっかく、うちの女房が作ってくれたんだ。オマエが喰わないと俺が叱られるんだ』 と言うと小さく尾を振りながら遠慮がちにご飯を食べ始めた。 翌日からノラは我が家の住人になった。よく見ると顔立ちがなかなか端正な男前だ。柴犬とコリー犬の雑種か?性格は非常に穏やかで人懐こい。ご近所の方からのウケもかなりいい。とくに鎖に繋がなくてもうちの狭い庭からは散歩のとき以外決して出ようとしなかった。 初めはモンクを言っていた妻もノラの良質で忠実な性格に魅かれ始め、やがて我が子のように可愛がり出した。よほど以前の飼い主の躾がよかったのか気品もあった。しかし、こんなに年老いたノラを捨てるとは、どんな事情があるにせよ反則だろう。 女房は週に一度はノラを風呂に入れ、ドライヤーをかけてやるほどの労わり方だ。お蔭で、ノラは、非常にこざっぱりし、威風堂々たるなかなかの面構えとなる。 まるで猫可愛がり・・・ いや犬可愛がりだな。そして妻は自らの実家にまで連れていき、自慢するぐらいの愛犬になっていた。 俺も四輪のキャンプのときは連れて行くようになった。テントの中では、どんなに寒い夜でも俺のシュラフの横で暖めてくれた。またキノコや山菜などを採りに山に入るときもよき相棒になっていた。 そして数年が経過する。この頃から、既に年老いていたノラはめっきりと衰え出す。散歩では足を引きずりながら、ようやく這うように歩くぐらい。 動物病院の医師の診断だとフェラリアに侵され、心臓が弱り、もう長くないとのこと。俺も妻も愕然とした。でも出来る限りのことはしてあげたいと思った。 その年の夏、俺は恒例の北海道ツーリングへ旅立つ日がきた。ノラはこのところ、ほとんど終日、玄関先のカーペットの上で丸くなっているほど弱っていた。食べ物も喉が通らない様子だった。果たして、この夏を乗り切れるかどうか。 『しっかりしろ、ノラ、俺が北海道から帰ってくるまで、必ず待ってろよ』 無理して立ち上がろうとするノラの頭を撫で、後ろ髪を引かれるように出撃した。 ざっと2週間ほどのキャンプツーリングを終え、自宅へ帰ると・・・ 大丈夫、ノラは健在だ。旅に出る前よりもむしろ元気そうで、激しく尾を振りながら俺の帰りを全身で喜んでいた。 そして数日後、事件は起きた。 夜中に珍しくノラが凄い勢いで吠えている。あのノラのどこにあんな元気が残っていたのだろう? 「なにか遭ったのかな」 女房も目を覚まし、呟いている。 『俺、ちょっと外を見てくるわ』 既に布団に入り、眠りについていた俺だが、妙に胸騒ぎがし、玄関のドアを開けた。 するとバイク置き場に人影が見え、その怪しい影が慌てて逃げ出した。バイク泥棒?部品剥ぎ? ノラは大きく咆哮あげ、玄関から勢いよく飛び出し、ゼファーのサイドカバーを抱えた不審な男を追いかけた。まるで豹、いや猛虎だ。 ご近所の小さな子供たちにとても人気があり、普段は温厚を絵に描いたようなノラの、こんなに熱い勇姿など見たことがない。 やがて男の悲鳴が聞こえてきた。 俺は声のする方へと、とにかく走った。 するとノラは圧倒的な勢いで野獣のような呻き声を発しながら、若いというか、少年風の男を組み倒していた。猛り狂うノラに男は怯えきっているらしく、既に観念した様子でじっとして動かなかった。 ご近所の方々も次々に出てきた。 「キタノさん、どうされました」 『はあ、どうやらバイク泥棒のようです』 「警察には通報しましたから、すぐパトカーが来るでしょう」 白髪のおじさんが、迅速に対応してくれたようだ。 「しかし、ノラちゃん、偉いねえ」 「本当にノラのお手柄だよ、このあたりも最近は物騒になったからね」 皆さんのノラへの賞賛の声もやまない。 やがてパトカーのサイレンの点滅が見え出した。 『ノラ、もう離しても大丈夫だよ、よくやった。ありがとう』 ノラは俺の方へ尾を振りながら歩いていた。顔は満足げに笑っている・・・かのように見えた。 そんな刹那、まるでビデオのスロー再生シーンを見るが如く、ノラはゆっくりとアスファルトへ倒れこんだ。 『ノラ・・・、おっ、おい、どうしたんだ』 あたかも消えかけた灯が最期に炎をあげながら激しく燃えあがり、そして燃え尽きたかのように見えた。 でも、ノラの顔はとても穏やかな表情で事切れていた。 後から出てきた女房が 「ノラちゃん、死んじゃイヤ」 ノラの亡骸を抱きしめながら大粒の涙を流していた。 この瞬間を目の当たりにした近所の人たちもあまりの衝撃に誰もが言葉を失っている。ノラをよく知るおばさんたちの中には堪えきれず嗚咽している方もいた。 「キ、キタノさん、まさかこんなことに・・・、あんた大丈夫か?なんと言ってよいものやら・・・」 ノラをなにかと可愛がっていた斜め向かいの家のお人よしのじいさんが、眼鏡を外しながらタオルで激しく目のあたりを拭いていた。 俺は女房に 『ノラは、北海道を旅していた俺のために死期を延ばしてくれていたのかも知れねえな。きっと最期に体を張って死に花を咲かせたかったんだよ。ちょっとばかり世話になった飼い主へきちんと恩を返してから、逝きたかったんだろう。こいつは、そういうヤツだ』 小さく呟いた。 パトカーの赤い点滅が、ノラの顔をくるくると照らしていた。 俺は肩を震わせつつ、骨と皮ばかりに痩せたノラの亡骸を抱いて、そっと家まで歩いた。 老兵は死なず、ただ消え去るのみ。 Old soldiers never die; they just fade away. この言葉が俺の胸に反芻していた。 見事な生き様だった。人間の俺ですら、なにか大切なことを教わった気がする。 俺は仕事やもろもろの日常の矛盾に疲れ果てていた。でも、オマエのように最期まで直球で勝負してみよう。誰になんと言われても俺らしく、自分の生き方を信じて真っ直ぐに前へ突き進んでやる。 『ノラ、オマエの体は、本当に軽くなっちまったな』 俺は、静かにノラへ語りかけた。 俺の腕のなかのノラの顔は、いつものようにとても優しい表情で眠っていた。 ノラは死んでなんかいない。俺や女房の心のなかで、穏やかに笑いながら見守ってくれているだけだ。 これからもずっと・・・ 長い間、オツカレさん。 『気をつけて行って来い』 本当にありがとう。 そして、さようなら。 |